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阿部規秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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阿部 規秀
あべ のりひで
生誕 1887年 9月8日
日本の旗 日本青森県
死没 (1939年11月07日) 1939年 11月7日(52歳没)
中華民国の旗 中華民国河北省
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907年 - 1939年
最終階級 中将
墓所 多磨霊園 [1]
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阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8日 [2] 1939年(昭和14年) 11月7日 [3] [4] [5] )は、日本陸軍軍人陸士19期。最終階級は中将。正四位勲一等功三級(追贈)。

日中戦争にて八路軍との交戦中に戦死し、中将としては帝国陸軍の創設以来初の戦死者となった[† 1]

経歴

青森県旧北津軽郡 七和村羽野木沢(現五所川原市)出身[6]

1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵第32連隊附少尉。第8師団副官、第18師団参謀、 仙台陸軍教導学校学生隊長、歩兵第32連隊長を経て、昭和12年8月2日 陸軍少将歩兵第1旅団長、昭和14年6月1日、駐蒙軍隷下独立混成第2旅団長に就任。

同年10月26日、太行山作戦に参加すべく、独立混成第2旅団から独立歩兵第2、第4大隊約1500人を率いて張家口を出発した。八路軍第120師(長:賀竜)と交戦。続いて11月3日には河北省淶源県の八路軍晋察冀軍区第一分区(司令員:楊成武)との戦闘を計画した。だが部隊は、峻険な太行山の地形を巧みに利用した八路軍のゲリラ戦法に苦戦し、部隊の救援のため11月5日夜に張家牧、6日に司各荘と更なる奥地へと進撃していき、7日に黄土嶺へと到着した。

阿部を戦死させた迫撃砲

だが撤退したと思われていた八路軍は、そこで密かに旅団を包囲網に誘い込んでいた。完全に策略に陥った阿部中将は16時ごろ第一分区第一団(団長:陳正湘)により民家付近で指揮を執っているところを発見され、同部隊配下の迫撃砲を受けた。砲弾は阿部の数歩手前で炸裂し、左腹部・両足の十数か所に致命傷を負った。しかし阿部はなおも引くことなく最期の力を振り絞って指揮を続け、同日21時50分ごろ息を引き取った。享年52。

陸大は出ておらず、(同期に第11軍司令官の塚田攻)自身の能力と人脈で将官まで上り詰めた、いわゆる「無天組」のトップといえる人物だった。 事実、温厚篤実かつ勇猛果敢な性格で、部下からの信頼も厚い人物だったとされる[6]

阿部中将の死後、指揮官を失った残存部隊はますます窮地に陥るが、独立混成第2旅団の残部と第26師団、第110師団続いて航空機部隊の支援を受け、包囲網を突破。逆転して劣勢となった八路軍は撤退した。

なお、この戦闘により楊成武は毛沢東より電報で称賛を受け、また阿部中将を直接攻撃した当時18歳の兵士・李二喜は、この功績により「抗日英雄」として「神砲手」の称号を与えられた[7] 。現在、この阿部を戦死させた迫撃砲は国家一級文化財に指定され、北京の中国人民革命軍事博物館に陳列されている。

略歴

栄典

演じた人物

脚注

  1. ^ なお、初の将官戦死者は日清戦争大寺安純少将。

出典

  1. ^ 歴史が眠る多磨霊園 著名人リスト 陸軍軍人
  2. ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和10年9月1日調)60コマ
  3. ^ 阿部規秀 - 軍人データベース
  4. ^ 留守第14師団参謀長 旅団長戦死の件
  5. ^ 陸軍中将阿部規秀戦死に関する報告
  6. ^ a b 朝日新聞 1939年11月22日附記事
  7. ^ 「抗日英雄」の李二喜氏が死去=日中戦争時、砲撃で日本軍中将を戦死さす―中国 exciteニュース 2010年3月29日13時34分
  8. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(大正12年9月1日)141コマ
  9. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(大正14年9月1日)124コマ
  10. ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(大正15年9月1日調)116コマ
  11. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和2年9月1日)116コマ
  12. ^ 『官報』第4321号・付録「叙任及辞令二」1941年6月5日。18コマ

参考文献

外部リンク

軍職
先代
田中清一
歩兵第32連隊長
第16代:1935年8月1日 - 1937年8月2日
次代
山本源右衛門
先代
小泉恭次
歩兵第1旅団長
第10代:1937年8月2日 - 1939年6月1日
次代
山本三男
先代
上野亀甫
独立混成第2旅団長
第3代:1939年6月1日 - 1939年11月3日
次代
人見与一

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