コンテンツにスキップ
Wikipedia

紀良子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。

紀 良子(きの りょうし/きの よしこ、建武3/延文元年(1336年) - 応永20年(1413年))は、南北朝時代から室町時代の女性。室町幕府2代将軍足利義詮の側室で、3代将軍足利義満、その弟満詮の母[1] [2] 。「北向」と号される[3] 石清水八幡宮 検校善法寺通清の娘。

良子の母である智泉尼聖通が順徳天皇の皇子四辻宮 善統親王の孫に当たるともいわれたため、義満の皇胤説が生まれ、皇室への対応の原因ともされるが、系譜の真贋は定かではなく、義満が自身の母系が皇胤であるとした動きは確認できていない[4] 。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。

義詮の正室渋川幸子所生の千寿王丸は5歳で早世していたため、義満は嫡子となり、幸子を准母として養育され、母としては生母である良子よりも幸子の方を重んじていた[4] 。幸子が従一位を授けられた永徳元年(1381年)には、良子は従二位とされており[5] 、後に従一位に叙された[1]

春屋妙葩に帰依し、応永20年(1413年)に没する。法号は洪恩院殿月海如光禅定尼[1]

脚注

  1. ^ a b c 『日本人名大辞典』講談社
  2. ^ 西尾和美『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
  3. ^ 小川『足利義満』p269。
  4. ^ a b 小川『足利義満』pp15-16。
  5. ^ 村井章介「渋川幸子」『国史大辞典吉川弘文館

参考文献

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /