紀良子
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紀 良子(きの りょうし/きの よしこ、建武3/延文元年(1336年) - 応永20年(1413年))は、南北朝時代から室町時代の女性。室町幕府2代将軍・足利義詮の側室で、3代将軍足利義満、その弟満詮の母[1] [2] 。「北向」と号される[3] 。石清水八幡宮 検校善法寺通清の娘。
良子の母である智泉尼聖通が順徳天皇の皇子四辻宮 善統親王の孫に当たるともいわれたため、義満の皇胤説が生まれ、皇室への対応の原因ともされるが、系譜の真贋は定かではなく、義満が自身の母系が皇胤であるとした動きは確認できていない[4] 。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。
義詮の正室渋川幸子所生の千寿王丸は5歳で早世していたため、義満は嫡子となり、幸子を准母として養育され、母としては生母である良子よりも幸子の方を重んじていた[4] 。幸子が従一位を授けられた永徳元年(1381年)には、良子は従二位とされており[5] 、後に従一位に叙された[1] 。
春屋妙葩に帰依し、応永20年(1413年)に没する。法号は洪恩院殿月海如光禅定尼[1] 。
脚注
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参考文献
- 小川剛生『足利義満』中公新書、2012年8月。ISBN 978-4-12-102179-3
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