平敦盛
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 嘉応元年(1169年) |
死没 | 元暦元年2月7日(1184年 3月20日) |
別名 | 無官大夫 |
墓所 |
高野山奥の院、須磨寺(首塚) 須磨浦公園(胴塚) |
官位 | 従五位下、若狭守 |
主君 | 安徳天皇 |
氏族 | 桓武平氏 維衡流(伊勢平氏) |
父母 | 父:平経盛 |
兄弟 | 経正、経俊、敦盛 |
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平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。
生涯
笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)[注釈 1] という笛を譲り受ける。承安4年(1174年)から治承2年(1178年)まで若狭守に任じられており、過去に官職についていた経歴はある。
平家一門として17歳[注釈 2] で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った[1] 。このことから、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
この『平家物語』の名場面は、のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節である。
墓所
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須磨寺にある平敦盛の首塚
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一ノ谷(須磨浦公園)の胴塚
伝承
広島県 庄原市には古くから「敦盛さん」という民謡(市の無形民俗文化財)が伝わっている。それによると敦盛の室(玉織姫、庄原では「姫御さん」と呼ばれる)が、敦盛は生きているとの言い伝えを頼りに各地を巡り歩き、庄原に至ってそこに住んだ、という。庄原市春田にはその玉織姫の墓といわれるものが残っている。
直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要[3] を行っている。また『一谷嫩軍記』では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっている。
敦盛が所有していた青葉の笛、高麗笛は須磨寺に保管されている。これらの笛は、江戸時代には拝観料を払えば見ることができるようになっており、笛に係る松尾芭蕉の句も残されている[4] 。
脚注
注釈
出典
- ^ 覚一本『平家物語』「敦盛最期」。
- ^ "存亡の危機、歴史ファンに人気「敦盛そば」 神戸". 神戸新聞NEXT (2019年6月20日). 2019年6月23日閲覧。
- ^ "熊谷寺案内:建久元年(1190年)「敦盛卿菩提供養の為、高野山に入る」". 浄土宗 蓮生山常行院熊谷寺. 2018年12月1日閲覧。
- ^ "芭蕉も渋った? 敦盛の笛「高すぎる拝観料」現代では無料に". 神戸新聞NEXT (2019年6月1日). 2019年6月1日閲覧。
関連文献
- 杉本圭三郎 『平家物語(九)』 講談社学術文庫、1988年 ISBN 4-06-158359-X
- 児玉幸多編 『日本史年表・地図』 吉川弘文館、1995年 ISBN 4-642-07840-1
関連作品
唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)の一番は、敦盛の最期を歌って広く知られる。(二番は平忠度)
一の谷の 軍(いくさ)破れ討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
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