山陰線支線の着工
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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山陰線支線の着工(さんいんせんしせんのちゃっこう)は、1900年(明治33年)5月から鳥取県の境港を起点として始まった鉄道 建設について記述する。
概要
指揮をとったのは石丸重美技師(後の鉄道院総裁)。6月に米子に鉄道作業局の出張所が設けられ、大量の人夫を動員、工事は進められた。人夫の日当は米1升(1.5kg)と5銭、1日12時間労働で昼夜兼行の突貫工事により、2年余りの後、1902年(明治35年)11月1日に境駅(現・境港駅) - 米子駅 - 御来屋駅間が開通した。
この日、米子駅頭には巨大なアーチが設けられ、盛大な開通記念式典が挙行された。
その他
皆生温泉の今日の隆盛をもたらした有本松太郎(兵庫県出身)、元自治大臣赤沢正道の父・康平(徳島県出身)、元加藤商事社長加藤章の父・豊吉(愛知県出身)などは鉄道建設工事のため米子に来住した。
元日本海新聞社米子支社長[1] ・島雄光蔵(しまおみつぞう)[1] によると「米子には事業家がおったですよ[2] 。皆鉄道のおこぼれです[2] 。有本さん、菊地さん、加藤さん、赤沢さん、皆山陰鉄道の建設で来られた人ですから[3] 。」という[3] 。
森納によると「この鉄道敷設によって弓浜、米子の経済に大きな刺激を与えると伴に、これを機に一儲けを目論(もくろ)む者もあり、色々な悲喜劇が起っている[4] 。県内外よりの労務者の流入、地元資材の購入で確かに地元経済を潤(うるお)し、境、米子の町に空部屋、空室もなくなったという話もある位であった[4] 。しかし反面暴行、傷害、賭博、性道徳の乱れ等社会のひんしゅくをかう事件も少なくなかった[4] 」という。
関連
脚注
[脚注の使い方]