小出英邨
小出 英邨(こいで ふさむら、1751年(寛延4年) - 1809年(文化6年))は、但馬国 養父郡大藪領(旗本・1500石)の第5代当主[1] 。
来歴
第4代領主・小出英都の二男。兄・梶之助の夭逝後に生まれた為、「政太郎」と名付けられ、事実上の長男として育てられる[2] 。名はその後、弾正、小弥太と改めた[1] 。諱は英邨[1] 。
1767年 10月26日(明和4年閏9月4日)、17歳の時、亡父・英都の遺跡を継ぎ小普請となる[3] 。
1768年 1月28日(明和4年12月9日)、初めて将軍・徳川家治に拝謁し、1768年4月21日(明和5年3月5日)、御書院番に列す[1] 。
1772年 10月18日(安永元年9月22日)、同番を辞すも、1780年 6月13日(安永9年5月11日)、江戸城西之丸の御書院番に復し、1790年 5月15日(寛政2年4月2日)、本丸の勤めとなる。
1797年 1月7日(寛政8年12月10日)、若君(徳川家慶)に附属されて、西之丸に伺候する[1] 。
1809年(文化6年)死去[3] 。享年59歳。法名は養徳院殿[2] 。墓は麻布の天真寺[4] 。遺跡を三男の英為(才三郎)が継いだ。
系図
但馬国養父郡大藪領主・小出氏
(虎之助) 6英為
(才三郎) 英行
(四郎) 女子 女子 女子
(重太郎) 小次郎
(播磨守)
領地
範囲
出石藩の本家から分与された、大江村、岩崎村、畑村、稲津村、大薮村、大塚村、上野村からなる都合1500石である。中には出石藩との入り合い地[8] もあり、藩から領地を割いて分与することは、次第に領地が狭くなることから否定的に捉える人々もいたが、この分地によって、結果としては出石藩が断絶したあとも、但馬に小出家の領地が存続することとなった[3] 。
陣屋
歴史
小出吉英の三男・小出英信が2000石を分封されてつくられた旗本 小出家であるが、当初は領地に陣屋を置かず、出石藩の城下町に住んで行政を行っていた。出石藩 小出家の無嗣断絶により、出石領内から出て行かざるを得なくなったので、知行地に陣屋が建てられたが、当初は大塚村にあり「大塚陣屋」と呼ばれた。その後、大塚陣屋が火災で燃えたため、大薮村に移された[3] 。
場所
陣屋は、大薮村の扇状地の高台(北側の一角)にあり、南北約150m、東西約80mで、「大藪陣屋」と呼ばれた。当主の小出家は江戸の定府で、家老の大島家と森嶋家が交替で「陣屋与(あずか)り」として、小出家の代わりに領地を治めた。家臣は「定府(江戸詰め)」と、「国侍(国詰め)」とに分かれていたが、国侍も江戸詰めを仰せ付けられることが度々あった。また各村にもそれぞれ在番勤務の侍を置き、これらはやがて世襲の役となった[3] 。
補註
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』堀田正敦編
- 『養父町史』
- 『大島貞薫傳』
- 『但馬の殿様』吉盛智輝著、神戸新聞総合出版センター、2010年