ジャバル・シャンマル王国
- ジャバル・シャンマル首長国
- إمارة جبل شمر
-
ジャバル・シャンマル首長国の国旗 ジャバル・シャンマル首長国の国章 (1920年までの国旗) (1920年以降の国旗) - ジャバル・シャンマル首長国の位置
1873年時点の領土 -
公用語 アラビア語
オスマン語
ペルシア語首都 ハーイル
ジャバル・シャンマル首長国またはハーイル首長国は、1836年から1921年まであったアラブ部族の国家。首都はハーイルにあった。
この国はラシード家 (英語版)の君主制によって統治され、今日のサウジアラビア、イラク、ヨルダンの一部を含んでいた。
歴史
[編集 ]ハーイル一帯の豪族だったアブドゥッラー・ビン・アリー・アッ=ラシード (英語版)はファイサル・ビン・トゥルキー・アール=サウード (英語版)の首長即位への功によって1834年ハーイル総督に列せられたが、ムハンマド・アリー朝の侵攻によってファイサルが追放される事態になった。これを奇貨としてアブドゥッラー1836年に自ら首長に即位してネジュド首長国(第二次サウード王国)から自立、1891年に至ってサウード家をリヤドからクウェートに追放しオスマン帝国の後ろ楯とメッカ巡礼の中継地であるが故の経済力を背景にアラビア半島内陸部を支配した。
しかし19世紀後半からのオスマン帝国の衰退でジャバル・シャンマル王国の優位にも翳りを見せ、1902年にはサウード家復興を掲げたアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードがリヤドを奪還。首長アブドゥルアズィーズ・ビン・ムトイブ・アッ=ラシード (英語版)自らサウード家追討に向かうも1906年にラウダト・ムハンナー (英語版)で敗死。これを切っ掛けとして衰勢は明らかとなり、1921年にサウード家に降伏して滅亡した。
脚注
[編集 ]- ^ "Jebel Shammar (Hail)". Worldstatemen.org. 2022年12月24日閲覧。
この項目は、歴史に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
この項目は、西アジアに関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:アジア/Portal:アジア)。
この項目は、サウジアラビアに関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:アジア / プロジェクト:アジア)。