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キルペリク2世 (フランク王)

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キルペリク2世
Chilperic II
フランク国王
キルペリク2世
在位 715年 - 721年

出生 672年
死去 721年 2月13日
アティニー
子女 キルデリク3世
王朝 メロヴィング朝
父親 キルデリク2世
母親 ビリキルディス
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キルペリク2世(Chilperic II, 672年 - 721年 2月13日)は、メロヴィング朝の12代目の国王(在位:715年 - 721年)。

生涯

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キルデリク2世と王妃ビリキルディス(ビリギルド、シギベルト3世の娘)の息子で[1] 、幼少期は修道院で過ごし、名をダニエルといった[2] 。715年、ダゴベルト3世が死去すると、ネウストリア宮宰ラガンフリド(ラゲンフリート)はダニエルを修道院から連れ出し、王位につけた[2] [3] 。717年、アウストラシア宮宰カール・マルテルヴァンシー(Vincy)の戦いでネウストリア軍を破り、キルペリク2世はアキテーヌ公ウードのもとに逃れた[3] 。同年、カール・マルテルはクロタール4世(在位:717年 - 718年)を王位につけたが、キルペリク2世はネウストリアにおける支持を保ち続けたため[4] 、クロタール4世の王権はアウストラシアに限定された。718年に再びカール・マルテルは勝利し全フランクの宮宰となり、キルペリク2世をパリへ戻した[4]

721年、キルペリクは死去し、カール・マルテルによりテウデリク4世が後継の王に選ばれた[4]

子女

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  • キルデリク3世 [5] - フランク王(在位:743年 - 751年)。父はテウデリク4世との説もある。

脚注

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  1. ^ 柴田 他、付録p. 81
  2. ^ a b 柴田 他、p. 154
  3. ^ a b ル・ジャン、p. 36
  4. ^ a b c ル・ジャン、p. 37
  5. ^ 柴田 他、p. 156

参考文献

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  • 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年

関連項目

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先代
ダゴベルト3世
フランク
12代
715年 - 721年
次代
テウデリク4世
フランク国王
メロヴィング朝
全フランク
分割統治
ランス
オルレアン
パリ
ソワソン
全フランク
分割統治
ランス(アウストラシア)
オルレアン(ブルグント)
パリ
ソワソン(ネウストリア)
全フランク
分割統治
アウストラシア
ネウストリアおよびブルグント
アキテーヌ
全フランク
分割統治
アウストラシア
ネウストリアおよびブルグント
全フランク
分割統治
アウストラシア
ネウストリアおよびブルグント
全フランク
カロリング朝
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