キルペリク2世 (フランク王)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キルペリク2世 Chilperic II | |
---|---|
フランク国王 | |
キルペリク2世 | |
在位 | 715年 - 721年 |
出生 |
672年 |
死去 |
721年 2月13日 アティニー |
子女 | キルデリク3世 |
王朝 | メロヴィング朝 |
父親 | キルデリク2世 |
母親 | ビリキルディス |
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キルペリク2世(Chilperic II, 672年 - 721年 2月13日)は、メロヴィング朝の12代目の国王(在位:715年 - 721年)。
生涯
[編集 ]キルデリク2世と王妃ビリキルディス(ビリギルド、シギベルト3世の娘)の息子で[1] 、幼少期は修道院で過ごし、名をダニエルといった[2] 。715年、ダゴベルト3世が死去すると、ネウストリア宮宰ラガンフリド(ラゲンフリート)はダニエルを修道院から連れ出し、王位につけた[2] [3] 。717年、アウストラシア宮宰カール・マルテルがヴァンシー(Vincy)の戦いでネウストリア軍を破り、キルペリク2世はアキテーヌ公ウードのもとに逃れた[3] 。同年、カール・マルテルはクロタール4世(在位:717年 - 718年)を王位につけたが、キルペリク2世はネウストリアにおける支持を保ち続けたため[4] 、クロタール4世の王権はアウストラシアに限定された。718年に再びカール・マルテルは勝利し全フランクの宮宰となり、キルペリク2世をパリへ戻した[4] 。
721年、キルペリクは死去し、カール・マルテルによりテウデリク4世が後継の王に選ばれた[4] 。
子女
[編集 ]脚注
[編集 ][脚注の使い方]
参考文献
[編集 ]- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年
関連項目
[編集 ]フランク国王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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メロヴィング朝 |
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カロリング朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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