コンテンツにスキップ
Wikipedia

ボストン (競走馬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年8月9日 (水) 00:13; 1220k (会話 | 投稿記録) による版 (→‎血統表 )(日時は個人設定で未設定ならUTC)

1220k (会話 | 投稿記録)による2023年8月9日 (水) 00:13時点の版 (→‎血統表 )
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ボストン
エドワード・トロイ (英語版)によるボストンの肖像画。1840年ごろ。
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1833年
死没 1850年 1月31日
ティモレオン
シスタートゥータカホ
生国 アメリカ合衆国
生産者 John Wickham
馬主 Nathaniel Rives
調教師 John Belcher
→Arthur Taylor
競走成績
生涯成績 45戦40勝
獲得賞金 51,700ドル
テンプレートを表示

ボストン(Boston1833年 - 1850年)はアメリカ合衆国競走馬種牡馬。45戦して40勝の戦績を残したアメリカ初期の名馬であり、死の105年後の1955年にはアメリカ殿堂馬に選ばれている。これは殿堂馬の中でも1814年生まれのアメリカンエクリプスに次いで時代が古い。レキシントンの父としても知られる。

1833年 リッチモンドで生まれる。その後1835年に生産者であるウィッカムがナザニエルと行ったカードゲームに負け、その負け分800ドルの返済に代わりボストンを譲ったという。ボストンという名前もボストンではなくカードゲームの名前より名付けられたとされている。

このあとジョン・ベルチャーのもとで訓練を受けることになったボストンだが、あまりに凶暴な気性のため調教師は非常に手を焼いた。一時は去勢も検討されたほどで、跳んだりはねたりして騎手を振り落とそうとしたり、レースに出れば自分から止まり、はてはほかの馬に噛みつく有様だった。しかしその後アーサー・テイラーのもとに移ると連勝を重ね、3歳から10歳時に引退するまでの8年間に40もの勝利を積み重ねた。

その後は種牡馬としてケンタッキー州などで供用されたが、晩年も凶暴な気性は直らず、さらには若いころの傷がもとで失明してしまい1850年に死亡した。その年に生まれたレキシントンと、そのライバル・ルコント、1846年生まれのレッドアイなどの産駒を送り出し、1841年から1843年までの3年間アメリカリーディングサイアーを獲得している。

血統表

[編集 ]
Boston血統 (ヘロド系/Diomed ×ばつ3=25.00%/Eclipse ×ばつ5=12.50%/Syme's Wildai×ばつ5=9.38%/Marske ×ばつ5=6.25% (血統表の出典)[§ 1]

Timoleon
1814 栗
父の父
Sir Archy
1805 鹿 Diomed
1777 栗 Florizel
Spectator Mare
Castianira
1796 黒鹿 Rockingham
Tabitha
父の母
Saltram Mare
1801 栗 Saltram
1780 黒鹿 Eclipse
virago
Symme's Wildair Mare Syme's Wildair
Driver Mare

Sister to Tuckahoe
1814 栗 Ball's Florizel
1801 栗 Diomed
1777 栗 Frorizel
Spectator Mare
Shark Mare
1785 Shark
Eclipse Mare
母の母
Alderman Mare
1799 鹿 Alderman
1787 黒鹿 Pot-8-Os
Lady bolingbroke
Clockfast Mare Clockfast
Wildair Mare
母系(F-No.) F-No.40(FN:ファミリーナンバー)


外部リンク

[編集 ]

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /