飯島誠太
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飯島 誠太(いいじま のぶた / せいた[1] 、1885年(明治18年)7月28日[1] - 1958年(昭和33年)3月23日[1] )は、日本の牧師。学校法人大阪女学院理事長。
経歴
[編集 ]日本基督教会 牧師飯島彌太郎の長男[1] として群馬県佐波郡宮郷村に生れる。
1886年(明治19年)伊勢崎日本基督教会にて幼児受洗[1] 。1903年 (明治36年)名古屋教会で信仰告白[1] 。明治学院神学部在学中、賀川豊彦らと神戸神学校に転学し同校卒業[1] 。
1914年(大正3年)からプリンストン大学 [1] 、ニューヨーク聖書大学に留学。帰国後、日本基督教会(現、日本キリスト教会)岐阜教会牧師となり1925年(大正14年)堺川尻教会(大阪府堺市)牧師となる[1] 。日本基督教会浪速中会の書記に選ばれ[1] 、日本基督教団成立後は常議員に選ばれた[1] 。1945年7月10日堺大空襲(第6回大阪大空襲 - 7月10日)により教会堂、牧師館焼失[1] 。長男・長女を失う[1] 。
初代大阪教区議長として諸会堂の復興に努めた[1] 。1955年(昭和30年)1月2日新年礼拝中の説教中に脳梗塞に倒れ[1] 、闘病中に北陸学院理事長、明治学院、関西学院評議員、教団諸委員など辞職後の1958年(昭和33年)3月23日召天。葬儀委員長は友人の賀川豊彦が務めた。
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。