コンテンツにスキップ
Wikipedia

肝付兼亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。220.148.190.64 (会話) による 2018年9月9日 (日) 14:30 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

220.148.190.64 (会話)による2018年9月9日 (日) 14:30時点の版
 
肝付兼亮
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄元年(1558年)
死没 寛永11年(1634年)
改名 兼成、兼輔、兼亮
別名 通称:与市、九郎、三郎四郎
官位 左馬頭
主君 島津義久
氏族 肝付氏
父母 父:肝付兼続
兄弟 禰寝重長正室、良兼兼長?、兼樹
肝付刑部少輔室、頴娃兼有室、兼定兼亮兼則兼護
前室:肝付良兼次女
テンプレートを表示

肝付 兼亮(きもつき かねあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名肝付氏18代当主。

生涯

永禄元年(1558年)、大隅国の大名・肝付兼続の子として誕生。

元亀2年(1571年)、異母兄・良兼の死去により、亡父の正室「御南」や兄・良兼の正室である「高城」の意向を受け、良兼の次女を正室に迎え家督を継ぐ。しかし、元亀4年(1573年)、島津氏方の北郷時久と戦って敗れたうえ、伊地知重興禰寝重良などが相次いで離反して島津氏に降ったため、これまで互角以上に渡り合った島津氏との立場は一変、天正2年(1574年)、島津氏に従属した。

しかし、日向国伊東氏と通じた上、夫婦仲が悪かったことで御南や高城に正室と離縁させられ、日向に追放された。

寛永11年(1634年)、死去。

大隅肝付氏18代当主(1571-1574)

兼俊 - 兼経 - 兼益 - 兼員 - 兼石 - 兼藤 - 兼尚 - 兼重 - 秋兼 - 兼氏 - 兼元 - 兼忠 - 兼連 - 兼久 - 兼興 - 兼続 - 良兼 - 兼亮 - 兼護 - 兼幸 - 兼康 - 兼親 - 年兼 - 経験 - 治兼 - 兼群 - 兼命 - 兼明 - 兼施 - 兼寛 - 兼亮 - 兼冬 - 兼遠 -

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /