スワン座
スワン座(英語: The Swan)はかつてイングランド、ロンドンのサザークにあった劇場である[1] 。スワン座はウィリアム・シェイクスピアの経歴の前半の1595年に以前に建設された建物の上に建てられた[2] 。ジェームズ・バーベッジのシアター座(1576年)とカーテン座(1577年)、ニューイントン・バッツ劇場(1555年と1577年の間)そしてフィリップ・ヘンズローのローズ座(1587年から1588年)に次いでスワン座はロンドンの一連の一般向けの劇場において5番目だった。
スワン座は、シティ・オブ・ロンドンからテムズ川を越えてサザークのバンクサイド地区の西端にあるパリスガーデンの荘園内にあった。スワン座は、1589年5月、フランシス・ラングリーが購入したロンドン・ブリッジに最も近いところにあるパリスガーデン地所の北東の端にあった。それは、テムズ川から約130メートルの場所だった。芝居客は、水路でやってくることができて、到着場所のパリス・ガーデン・ステアーズとファルコン・ステアーズからは少し歩けば着いた[3] 。元々その建物は、バーモンジーの修道院のものだった。イングランドの宗教改革でカトリックの修道院がなくなったのちに、それは王室の所有になり、そして何人かの手に渡り、その後850£でラングリーに売られた[1] 。ロンドンの市長は、劇場を開くためのラングリーが受けた許可に反対したけれども、ラングリーの抗議はその所有物がかつて王室のもので、市長は司法権がなかったため自身の立場を守ることができなかった。
ラングリーは、ほぼ確実に1595から1596年にスワン座を完成させた。スワン座が建てられた当初は、ロンドンにある劇場の中で、最も視覚的に強い印象を与えた。1596年頃ロンドンを訪問したオランダ人のヨハネス・デ・ウィットは、『ロンドンの観察』という名の写本の中にスワン座について記録を残したが、現在は存在しない。ラテン語から翻訳された彼の記録では、3,000人の観客動員のできるスワン座を「最も素晴らしく大きなロンドン円形劇場」として認めている。スワン座は、燧石のコンクリートで造られ、「ローマ風」の外観を与えた。そして、その木製の支柱は、とても巧妙にペイントされていたので、「最も感覚の鋭い人たちにさえ、それらが大理石であるように思わせた。」デ・ウィットは劇場のスケッチも描いた。原画は失われたけれども、アレント・ファン・ブッシェルによる複写は残存し、存在すると知られているエリザベス1世時代の劇場の唯一のスケッチだ。もし1596年の夏にスワン座で宮内大臣一座が上演していたとすると、全く確実ではないが可能性はあるので、彼らはそのスワン座のスケッチに描かれている役者なのかもしれない。1613年にヘンズローが新しいホープ座を建てた時に、彼は大工に、彼自身のオリジナル劇場であるローズ座よりもむしろスワン座をまねさせた。比較するとローズ座は、旧式で時代遅れの外観だったに違いない。
1597年に、スワン座はペンブルック伯一座を迎え入れた[4] 。俳優リチャード・ジョーンズ、トマス・ダウンタウン、そしてリーダーのエドワード・アレンは、ライバルであるローズ座の海軍大臣一座の地位を捨てて一座に加入した[5] 。1597年に、ペンブルック伯一座はトマス・ナッシュとベン・ジョンソンによって書かれた悪名高い『犬の島』の戯曲を上演した。気を悪くさせたその内容は、間違いなく権威の高い人々の攻撃の「風刺的」性質だった [1] 。ジョンソンは、演劇役者のガブリエル・スペンサーと他の役者とともに投獄された。劇場と無関係な問題で、枢密院とすでにトラブルに遭っていたラングリーは、すべての上演を止め、すべての劇場を破壊するという王室の命令後、彼の一座に演劇を上演させるのは、彼の危険を悪化させたかもしれない。この命令はラングリー1人にむけられたのかもしれない。つまり、他の一座である宮内大臣一座と海軍大臣一座は、10月に舞台に戻ることについての権利を与えられた。彼らは、上演するライセンスを与えられた。ライセンスのある2つの一座がペンブルック伯一座に注意を促した1598年2月19日までスワン座はライセンスなしで上演し続けた。スキャンダルに続き、スワン座は、ほんの時折に上演をし続けた[1] 。別のスキャンダルが1602年にスワン座を動揺させた。それは、リチャード・ヴェンナーが新しい戯曲、『イングランドの喜び』を11月6日にスワン座で上演するための宣伝をした時だった[5] 。ヴェンナーはその戯曲をエリザベス女王に敬意を表する空想的な物語であると主張した。そしてチケットはすぐに売り切れた。しかしながら、戯曲は上演されることはなかった。市民は怒り、劇場を破壊した。そして、劇場はその以前の人気をとりもどすことは決してないように思えた。
宮廷と都市が、ロンドンでの演劇一座の数を制限することに関心を示し、その結果、都市には、広く屋根の開いた劇場が供給過剰だったため、スワン座では断続的に芝居が上演されるだけだった。『犬の島』と共に、スワン座で初演された最も有名な戯曲はトマス・ミドルトンの『チープサイドの貞淑な乙女』であり、1613年に新しく合併されたエリザベス姫一座によって上演された。スワン座は、剣戟大会や熊いじめなどのような他のポピュラーなエンターテインメントを提供した。
以後8年、建物は特別なエンターテインメントのために時々使われた。1615年の後にスワン座は5年間見捨てられたけれども、1621年に知られていない役者の何人かによって再び使用された。彼らは長い間とどまらなかった[1] 。
その建物は次の20年の間に老朽化した。ニコラス・グッドマンの1632年のパンフレット、Holland Leaguerにおいて、劇場は「現在、腐敗してきてしまっている。そして、死にかけているハクチョウのように首を垂れ、自らの挽歌を歌う」と記録されている[6] 。史料はその日付の後にスワン座に言及していない。
脚注
- ^ a b c d e Adams, Joseph Q. Shakespearean Playhouses A History of English Theaters from the Beginnings to the Restoration. Cornell University, 1917; pp. 160–180.
- ^ F. E. Halliday, A Shakespeare Companion 1564–1964, Baltimore, Penguin, 1964; p. 481.
- ^ Trussler, Simon. The Cambridge Illustrated History of British Theatre. New York: Press Syndicate of the U. of Cambridge, 1994; pp. 164.
- ^ Mateer, David. "Edward Alleyn, Richard Perkins and the Rivalry between the Swan and the Rose Playhouses." Review of English Studies: The Leading Journal of English Literature and the English Language 60 (2009): MLA International Bibliography. Web. 5 March 2010.
- ^ a b Thomson, Peter.The Cambridge History of British Theatres. Ed. Jane Milling. Vol. 1. UK: Cambridge University, 2004; pp. 70–92.
- ^ George Pierce, The Development of Shakespeare as a Dramatist, New York, Macmillan, 1907; p. 50 n. 2.
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、スワン座 に関するカテゴリがあります。
- Joseph Quincy Adams, Jr. Shakespearean Playhouses - プロジェクト・グーテンベルク
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