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パラグアイ戦争

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三国同盟戦争

トゥユティの戦い
戦争:三国同盟戦争
年月日:1864年から1870年
場所:パラグアイ・ブラジル・アルゼンチン
結果:パラグアイの敗北
交戦勢力
パラグアイ ウルグアイ
アルゼンチン
ブラジル帝国
指導者・指揮官
フランシスコ・ソラーノ・ロペス
ホセ・エドゥギビス・ディアス
ドン・ペドロII世
カシアス公
アルゼンチンの旗 バルトロメ・ミトレ
ウルグアイの旗 ベナンシオ・フローレス
戦力
開戦時に63,000人 開戦時に26,000人
損害
兵士、市民300,000人 兵士、市民90,000人 から100,000人
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三国同盟戦争(さんごくどうめいせんそう、Guerra de la Triple Alianza1864年-1870年)は、パラグアイと、アルゼンチンブラジルウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争ラテンアメリカの歴史の中で最も凄惨な武力衝突となった。パラグアイ戦争 (Guerra do Paraguai)と呼ばれる事があるが、この名称は主にブラジルでの使われ方である。開戦の直接のきっかけは、当時ブラジル・アルゼンチンの緩衝国であったウルグアイの内戦に、パラグアイの独裁者であり領土拡張主義者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペス (Francisco Solano López)が介入したことによる。このため、ロペス戦争(Guerra López)とも呼ばれることがある。この開戦には、ラテンアメリカの植民地支配の歴史や、この地域へのイギリスの経済的関心も影響している。

戦争前の各国の事情

パラグアイの事情

フランシスコ・ソラーノ・ロペス元帥

1810年 5月25日五月革命によるブエノスアイレスの主導権を認めずに、1811年に独立したパラグアイは、総統フランシア博士の時代からアルゼンチンのメソポタミア地方の分離独立を支持する政策を採り続け、1820年のエントレ・リオス共和国の樹立にもパラグアイの影響があったと言われている。こうした政策は成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合した。

1844年にパラグアイ共和国初代大統領に就任したフランシア博士の甥、カルロス・アントニオ・ロペスの開放政策の下で南米初の義務教育の導入、南米でも早い部類に入る鉄道の導入、工業化、ヨーロッパへの留学生の派遣、タバコマテ茶の貿易、そして国土の98%にも及ぶ土地の国有化により、パラグアイはラテン・アメリカで最も近代化された国家となり、1862年に彼が死去した時には常備18,000、予備45,000の併せて六万人にも及ぶ南米最強の軍隊を有していた。

カルロス・ロペスは前任者と同じようにアルゼンチンのリトラル三州の分離独立運動を支援し続けたが、これはフアン・マヌエル・デ・ロサスの怒りを買った。1845年にはロサスはパラグアイとの貿易を停止し、1845年から1846年にかけてアルゼンチン軍と戦闘することになる。 アルゼンチンの圧力は撥ね退けたが、1852年にロサスが失脚すると今度はブラジル帝国からの圧力が強くなってきた。ブラジルはパラグアイ川の自由航行権をパラグアイに要求し、危うくパラグアイとの戦争にまでなりかけたが、1858年にパラグアイがブラジルに自由航行権を認めると一旦対立は収まった。

カルロス・ロペスは1862年「共和国は解決すべき多くの問題を抱えている。しかし剣によらずペンで解決せよ。特にブラジルに関しては」と息子に言い残して死亡した。そして同年長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが第二代大統領に就任する。

こうした状況の中でブラジルはウルグアイとパラグアイに対する野心を隠さず、ソラーノ・ロペスの娘とブラジル皇帝の縁談は断られた。一方でイギリス帝国も南米で唯一イギリスの自由貿易帝国に加えられていないパラグアイを疎ましく思うようになっていた。

ウルグアイの事情

東方州は1825年からはじまったアルゼンチン・ブラジル戦争の後、フアン・アントニオ・ラバジェハ33人の東方人の掲げたアルゼンチンバンダ・オリエンタルの統一と言う目標は、ラ・プラタ川の両岸をアルゼンチンが単独で保持することを恐れたイギリスの介入によりかなわず、結局東方州は1828年にモンテビデオ条約の結果としてアルゼンチンとブラジルの緩衝国家、ウルグアイ東方共和国として独立することになった。

その後コロラド党ブランコ党の対立がそれぞれ二大国の支援を仰ぐことになり、大アルゼンチンを目指してウルグアイの併合を目論んだアルゼンチン連邦フアン・マヌエル・デ・ロサスがブランコ党を支援し、ロサスと敵対していたブラジル帝国、イギリス、フランスがコロラド党を支援するという構図の大戦争が勃発した。

戦争半ばからはブランコ党が優位だったが、1851年にコロラド党、ブラジルと同盟したフスト・ホセ・デ・ウルキーサの手で、モンテビデオを包囲していたブランコ党が破られると大戦争が終わり、翌1852年のカセーロスの戦いでロサスは失脚した。その後コロラド党とブランコ党の挙国一致政権が出来るがこれもすぐに崩壊し、1854年にコロラド党のベナンシオ・フローレスが大統領に就任したものの、その後もコロラド党とブランコ党の対立が内戦に発達する要素は保っていた。

アルゼンチンの事情

バルトロメ・ミトレ

アルゼンチンではフランスイギリスとの大戦争を戦い抜いたロサスがカセーロスの戦いで、ブラジル、コロラド党と同盟したエントレ・リオス州出身の連邦派のカウディージョ、ウルキーサに敗れると、1852年にウルキーサがアルゼンチン連合を主催し、1825年以来の中央政府が樹立される。しかし、ブエノスアイレス州はアルゼンチン連合への加入を拒否し、1861年9月にバルトロメ・ミトレ州知事がウルキーサをパボンの戦いで破ると、アルゼンチン連合とブエノスアイレス州を合併し、1862年10月には自らその大統領になった。ここにアルゼンチン初の国土統一が成ったのである。こうしてアルゼンチンの急速な西欧化が始まった。

自由主義者で欧化主義的な傾向があったミトレは、当時のラテンアメリカの自由主義者の典型例のように、ガウチョカウディージョインディオのようなスペイン的なもの、土着的なものを、野蛮で劣ったものとみなし、一方で内陸部のカウディージョもミトレに対しての反発を抱き、既にミトレが大統領になる前の1862年2月には「チャーチョ」と呼ばれて民衆に親しまれていたカウディージョ、アンヘル・ペニャローサラ・リオハ州から蜂起した。

「チャーチョ」は1863年11月に連邦軍に捕らえられ、処刑されたが、パボンの戦いで敗れたウルキーサは失脚したものの、こうした不満を持つ連邦派のカウディージョの統領として未だに影響力を保っていた。

ブラジルの事情

パラグアイ戦争に臨むドン・ペドロ2世

1822年の独立後、ペドロI世が失脚した後、ペドロII世が即位すると、各地で起きていた反帝政反乱は終わりを迎え、1845年には最大の反乱だったリオ・グランデ・ド・スル州の分離独立戦争も終結した。

大戦争以後アルゼンチンとの緩衝国となっていたウルグアイへの影響力拡大は進み、多くのブラジル資本が進出したが、 同様に緩衝国だったパラグアイは自立的な発展を遂げていた。 ブラジル帝国は内政の一応の安定を背景にパラグアイへの進出を目論み、カルロス・ロペスの時代には軍事力を背景にパラグアイ川の自由航行権を認めさせる。さらにマット・グロッソ付近の係争地において領土要求をパラグアイに突きつけ、次第にパラグアイへの対応は強硬なものになっていった。

イギリスの事情

アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルをはじめ、イギリスは独立後のラテン・アメリカ諸国に莫大な借款を与えて周辺国化し、全ての国の経済をコントロールしていた。 しかし、ラテンアメリカで唯一パラグアイだけがイギリスのコントロール下に入らず、カルロス・ロペスの下で自立的に近代化を果たしていた。かくしてアルゼンチンで強力にイギリスと敵対したロサスの失脚以降、イギリスがこの地に支配的な権力を確立するのに、パラグアイは最も危険な国となっていた。

ウルグアイの内戦

大戦争のように、ウルグアイの二大政党がそれぞれアルゼンチン・ブラジルの支援を受けての内戦を繰り広げるという構図は既に述べたが、1854年に成立したコロラド党のベナンシオ・フローレス政権は翌年クーデターで崩壊し、1860年にはブランコ党のベルナルド・ベロ政権が誕生する。

これに対してベナンシオ・フローレスは1863年4月にアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領の支援を受けてウルグアイに侵攻した。ミトレはかつて自分や、仲間の自由主義者を追放した憎むべきロサスに支援されていたブランコ党を許せなかったのだ。ブラジルもそれまでの伝統的友好関係から、ブランコ党がブラジルで牛泥棒をしたことを口実にして、1863年12月に公然とコロラド党を支援すると、後がなくなったブランコ党のアタナシオ・アギレ政権は1864年3月、遂にパラグアイに助けを求めることになる。

ソラノ・ロペスは当初はこの要請を退けようとしたが、次第にブラジル、アルゼンチンのニ大国に挟まれて消滅しかかっているウルグアイの運命は、明日のパラグアイなのではないかと考えたようだった。こうしてソラノ・ロペスは1864年8月、ブランコ党を支援するためには戦争をも辞さない覚悟をブラジル公使に伝える。

しかし、ブラジルはパラグアイの警告を無視して1864年10月にウルグアイに軍隊を派遣し、コロラド党軍と共にブランコ党との戦いに加わった。ブラジルの行動を座視できなかったパラグアイは1864年11月、パラグアイ川のブラジル船、『マルケス・ヂ・オリンダ』を拿捕し、三国同盟戦争が始まるのである。

開戦とロペスの誤算

本格的な陸戦は、1864年11月にパラグアイ軍ブラジル帝国との係争地域だったマットグロッソ州(現在のマットグロッソ・ド・スウ州)に侵攻することにより開始された。6,000の兵力で侵攻したパラグアイ軍は、翌12月にはブラジルの要衝コインブラやコルンバを占領することに成功した。さらには南下してウルグアジャーナにまで至り、征服した地域をアルト・パラグアイ県として国土に編入する。しかし、ここでソラノ・ロペスの計画に誤算が生じた。ロペスはアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領に領土通行権を求め、アルゼンチン反体制派の指導者フスト・ホセ・デ・ウルキーサと密約して、もしアルゼンチンが通行権を認めないなら、ウルキーサがアルゼンチン連邦派をまとめて反乱を起こすことを取り決めていたのだが、この密約がウルキーサに反故にされたのだ。

ソラノ・ロペスはウルキーサに決起を迫ることを目的に、1865年3月に入るとパラグアイは1万の兵力によりアルゼンチンにも侵攻を開始し、翌4月にはコリエンテスを占領する。しかし、それでもウルキーサは動かなかった。

三国同盟の結成

1865年4月、ウルグアイでも当初ロペスに内政干渉からの助けを求めたブランコ党のアギレ政権が崩壊した。コロラド党のベナンシオ・フローレスがブラジル軍と共にモンテビデオを占領したのだ。 アルゼンチン、ブラジルの支援で政権についたコロラド党はパラグアイに宣戦布告するに至り、1865年5月にはイギリスの監督と影響の下でアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟が結ばれる。

この時点で当初ロペスが意図したアルゼンチン、ウルグアイの支援を受けてブラジル帝国と戦うという構想は崩れ、ロペスに勝ち目はなくなっていた。

戦争のパラグアイ化

アルゼンチン軍の少年兵

6月にパラグアイ軍はブラジル南部のリオグランデ・ド・スウ州を経由し、ウルグアイ軍に迫った。しかし、6月11日にパラナ川で行われた水上戦闘において、パラグアイ艦隊はブラジル艦隊に敗北を喫した。これにより、ウルグアイ軍に迫ったパラグアイ軍は包囲され、降伏するに至った。パラグアイ軍は主力を国内に撤退させるに至った。

1866年には、三国同盟軍がパラグアイ国内へ侵攻を開始した。パラグアイ川とパラナ川の合流点にあるパソデリアは、4月に同盟軍が占領した。5月にはパソデリア北方において、パラグアイ軍25,000と同盟軍45,000による大規模な戦闘が行われ、パラグアイ軍が壊滅的な打撃を受けた。

ミトレはこの戦争を土着(パラグアイ、スペイン的)と文明(アルゼンチン、ヨーロッパ的)の戦いとみなしたが、この意識は同時にアルゼンチンの連邦派カウディージョにパラグアイへの仲間意識をもたらした。ウルキーサが果たさなかった決起を、ウルキーサに代わって果たした連邦派のカウディージョの反乱、特に「パラグアイ戦争への反対とラテンアメリカ諸国の連合」を旗印にした、カタマルカ州フェリペ・バレーラを鎮圧するためにアルゼンチン軍が戦線離脱し、ミトレの任期終了後ウルグアイ軍も離脱すると、戦争後半にはほとんどブラジルが単独でパラグアイと戦争するような状況になった。

その後も同盟軍はパソデリア北方におけるパラグアイの要塞を攻撃し、1867年7月にはウマイタ要塞を陥落させるに至った。これによりパラグアイ川が航行可能となり、同盟軍は川沿いに急速に進撃を開始した。軍主力が壊滅しているパラグアイ軍は、老人や子供を動員し、何度も防戦を行ったが、兵力不足により敗北が続いた。遮るもののなくなった同盟軍は1869年1月に首都アスンシオンを占領した。ソラノ・ロペスは、老人と子供を多く含む市民とともに首都を脱出し北上した。このパラグアイ人の集団は戦闘を行いつつ北上を続けたが、1870年3月1日に同盟軍に包囲され、ロペスは戦死し、戦争は終結した。

結果

分割されたパラグアイ
『我が子の遺体を看取るパラグアイ兵』

戦争はパラグアイの完全な敗北に終わった。開戦前にアルゼンチンのミトレ大統領が三ヶ月で終わるといった戦争は実に五年に渡り、政府軍同士による戦いが終結した後も長期に渡るゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされ、軍民問わず多数のパラグアイ人が死亡した。ある推測によると、戦争および戦争中の疫病により、開戦前にいた525,000人ほどのパラグアイ人のうち、211,009人しか生き残らなかったと言われている。 他の統計もあるが、どれほど少なく見積もってもこの戦争でパラグアイ人の半分以上が死亡したことに変わりはないようである。領土もミシオネス州フォルモサ州がアルゼンチンに、東部がブラジルに併合され、実に領土は戦前の四分の三になった。

この戦争で、南米におけるプロイセンのような立場だったパラグアイの軍事国家としての挑戦は失敗に終わり、パラグアイもイギリスの覇権構造の下に組み込まれることになった。終戦後、パラグアイでは壊滅的に混乱した状況からの立ち直りと、成人男子の殆どを失ったことによる人口分布のアンバランスの解消におよそ半世紀の年月を費やした。さらに、戦後すぐイギリスから巨額の借款が押し付けられ、経済的にはイギリスとアルゼンチンに従属することになり、戦前パラグアイの農地の98%を占めた公有地はアルゼンチン人に買い取られ、パラグアイにも他のラテンアメリカ諸国と同じような大土地所有制が導入された。政治的にはブラジルに従属することになり、以後この二国の強い影響を受けることになる。

ブラジルはこの戦争で5万人近い死傷者を出した。前線で戦った兵士は黒人兵が主であり、アルゼンチン人の共和思想との接触などの影響もあった。そして戦争で活躍したカシアス公が軍の主導者となって、今日まで続く政治における軍部の影響力の強化が始まる。こうした要素が合わさってブラジルの政治は戦時中から戦争終結後に奴隷制を廃止する方向に動き、1888年の黒人奴隷制度の廃止と、それに伴う1889年帝政そのものの終焉につながることになる。この戦争での時価で30万ドルにも達する莫大な戦費をイギリスから借りたため、通貨不安が発生しより一層イギリスに対する従属的な姿勢をとることになった。

ウルグアイでは戦後、ブラジル・アルゼンチンによる内政介入が和らぐことになるが、ウルグアイ軍はパラグアイ軍との戦いで大きな損害を受け、パラグアイから得たものは何もなかった。その後もウルグアイは政情不安が続き、20世紀はじめにコロラド党からホセ・バッジェが出てくるまで伝統的な対立は収まらなかった。

アルゼンチンは開戦当初にミトレ大統領が目論んだとおりに連邦軍が制度的に確立し、戦時中にブラジルに兵器を輸出することなどもあって、軍隊の確立など近代化への道をたどり、戦争によってアフリカ系アルゼンチン人などもいなくなっていった。地方のカウディージョの乱も1876年にロペス・ホルダンを討伐した頃には収まっていった。ブラジルと同様にこの戦争での莫大な戦費をイギリスから借りたため、より一層イギリスに対する従属的な姿勢をとることになったが、それでもアルゼンチンはその後20世紀の半ばまで先進国の仲間のように数えられる日が来るのだった。

ウルキーサはこの戦争でアルゼンチン軍への軍需物資を卸すことにより巨万の富を成すが、この行動が仲間の連邦派からの顰蹙を買い、1870年に連邦派のロペス・ホルダンに暗殺された。

この戦争で一番の利益を得たのはイギリスだった。イギリスは戦争当事国となった全ての国に借款を与え、ブエノスアイレスリオデジャネイロ、そしてその操り人形に支配されていたモンテビデオを通して、自らは全く手を下さずに南米大陸の奥地で唯一孤立を続けていたパラグアイを軍門に降した。こうしてイギリスは第一次世界大戦後にアメリカ合衆国が乗り出してくるまで、この地域に完全な経済的覇権を確立することに成功したのだった。

関連作品

  • Javier Romero"Triple Alliance War",Strategy & Tactics No.245,Decision Games。1865年〜1869年におけるパラグアイvsアルゼンチン、ブラジル&ウルグアイ3国連合軍の戦いを再現した。[1]

脚注

  1. ^ クロノノーツ ゲーム(著作権者の許可を得て邦訳ルール無料公開) [リンク切れ ]

参考文献

外部リンク

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