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これはこのページの過去の版です。124.85.143.230 (会話) による 2011年8月23日 (火) 02:11 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

124.85.143.230 (会話)による2011年8月23日 (火) 02:11時点の版

「時代によって」夢がカラーになったり白黒になったりするというのは聞いたことがありませんが、本当ですか?「人によって」色がついたりつかなかったりというのは聞いたことがあるけど...。他の人はどう思います?FOUより。

すいません。(時代の上)白黒テレビなどに影響された「人」ということです。消しておきます。202.13.160.41 05:19 2003年9月25日 (UTC)
なるほど、そういうことならわかります。(私自身は生まれた時からカラーテレビしかなかったので、それも本当かどうか知りませんが。)でもややこしいので消しておいた方がよさそうですね。FOUより。

ちょっと相談なんですが、限定的な使い方もここにおいていいんですか?今次の概念を載せようと思っています。

  • 空想、妄想(「夢見がち」の時のみ)
  • 実現に向けて努力したものの、実現できなかった事柄(「夢に終わる」の時のみ)
  • はかなく消え去ってしまうもの、またはあっという間に時間が過ぎること(「夢のよう」の時のみ)
  • ある人が、または人類全体が持つ要求に答えてくれる理想的な状態(「夢のよう」のときのみ)
  • 現在の常識から考えて、到底実現不可能な事柄(「夢の(ような)」の時のみ)

これらは載せるべきですか?FOUより。

こんにちは。ウィキペディアは辞書ではなく事典なのでただの意味の列挙以外に何かそれらしい記述があるといいな、とは思います。ただ、夢の概念が様々な異なる意味やニュアンスを持っているならそれについての情報が記事内に記されていることは望ましいことだろうと思います。
夢(の概念)がどのようなものであるかの詳細な説明であると考えればFOUさんが挙げている事柄をいい形で含められそうな気もします。
「夢」という言葉がそもそもどういう語源なのか、いわゆる睡眠中に見る夢を指す言葉であったものが、転じてそれ以外の意味を帯びるようになったのか、あるいはもともと「願い」とか「心に思い描くこと」といった意味の言葉で睡眠中に見るものにも、願望として思い描くことにも適用されるものだったのか、そういったあたりがわかると、更にいい形になりそうなんですが。。どなたかご存知の方はいないでしょうかね。。Tomos 00:32 2003年9月26日 (UTC)

Tomosさん、お返事ありがとうございます。私は語源などは知りませんし、私自身も「夢」の概念はあやふやでよくわかっていないところがあります。ですからTomosさんの意見を参考に、結論を急がず少し考えてみたいと思います。もちろん、ここを読んだ私より詳しい誰かが書き換えてくれても、それはそれでいいのですが。とにかく、しばらく様子を見ることにします。繰り返しになりますが、Tomosさん、ありがとうございました。FOUより。

西郷 信綱 古代人と夢 に、夢という語は「寝目」(いめ)から来ているとの記述があったのを覚えています。それが正しいのかどうかわかりませんが、ご参考までに。この著書は日本の古典をもとに「古代人」と夢のあり方を解き明かそうとしたものです。(私が覚えているのはそこまでです。。)--fauna
問題をそのままにしておくわけにはいかなかったので、とりあえず三省堂の「goo辞書」を参考に項目を追加しました。ちなみに、書き写しではないので著作権の問題はないと思います。相談にのってくださったみなさん、ありがとうございました。FOUより。

娯楽作品の羅列

ここでもか...な気もしないでもありませんが、本項でも記事主題に関係性(関連性と言うほど強いものではない)のある著作物・娯楽作品が羅列され始め、WP:TRIVIA的に見ても説明的ではない事物の羅列に堕し始めたため、より俗な作品をコメントアウトしました。節の主題としても「芸術」と表現されているところを、商業娯楽作品まで羅列されている状況は如何様に言っても説明的ではないと考えます。なお黒澤映画についてはちと悩みどころ(黒澤明当人が見た夢を映像化するという芸術でなかったなら無茶な作品なので)。一応意見を募りますが、1ヶ月ほど待って異論が出なければ除去を考えています。--夜飛(/) 2009年4月26日 (日) 04:25 (UTC) [返信 ]

あの節をざっくり全部除去するので問題ないかと思います。芸術であろうとなかろうと(このあたりは主観的な要素が大きすぎますし)単純に関連するのみであって、本記事の内容を補完するようなものではないと感じるためです。--Baldanders 2009年4月26日 (日) 05:04 (UTC) [返信 ]
たしかに全部を非表示にしてしまうのはかなり問題だろう。通俗モノも非表示にしてしまうよりは、折りたたみ程度の措置が妥当かもしれない。「夢に関連する作品」とすると際限なく数が増え暴走してしまうが、「夢を主題(メインテーマ)にした作品」とすると、数がほどほどに限られ、適切なレベルのリストとなる傾向がある。これならば、読者も得られるものが多々ある。当方で改良作業を行った。--60.38.41.75 2011年8月14日 (日) 01:45 (UTC) [返信 ]
暫定的に夢が主題と判断できるものをいくつか、非表示のエリアから<たたみこみ>の中に移動させた。本当に夢が主題なのか、よくよく吟味するべし。作者が、夢が主題だ、と宣言しているのか、それとも夢が主題だと指摘している評論家の出典があるのか、よく吟味すべし。夢は単なる枠組みや舞台装置で、主題は別だというケースもある。安易に<たたみこみ>の中に移動させない。--60.38.41.75 2011年8月14日 (日) 02:26 (UTC) [返信 ]

出典不足

全体的に出典が不足している。そのせいか、全体的に説明に緻密さを欠いているし、言うに言われないが、中身が薄い。学問的に見て、書くべきことがかなり抜け落ちている。きちんと出典を用意して、よく読んで、正しく文章を作成するべき。現状とはかなり違う記事になるはず。要出典タグを貼って、出典提示を促す作業を行うとよい。--60.38.41.75 2011年8月14日 (日) 01:39 (UTC) [返信 ]

文献

参考文献として挙げられるのは、あくまで形式的に判断しても出典として用いている証拠がある文献に限る。現在「参考文献」としてリストしてある文献は<ref>で文章と結びつけられていない、つまり参考文献として用いているという証拠が無いから、関連文献として扱うしかない。--222.146.190.224 2011年8月22日 (月) 17:23 (UTC) [返信 ]

反対 個人的にも、確かに出典は参考文献は脚注を用いてどの情報源を明示することが望ましいとは考えています。ですが、「Wikipedia:出典を明記する」にもあるように、参考文献として末尾に文献名だけを列挙する形式も禁止されている訳ではなく、<ref></ref>で文章と結びつけられていない出典を無効と見なす合意は、現在のウィキペディア日本語版にはありません。もちろん記事の内容を参考文献と照らし合わせて検証した結果、参考文献の内容が無関係であったり、記事の内容が文献に反していた場合は是正が必要ですし、その際に脚注による明示があった方が検証が容易であることは言うまでもありません。しかし、そうではない文献を全て無効と見なすような主張は行き過ぎだと考えます。
もちろん222.146.190.224さんが実際に参考文献として列挙されている文献に目を通し、それらを<ref></ref>を用いて文章と結びつける作業を自発的に行うことは、歓迎されることでしょう。--Kanohara 2011年8月22日 (月) 19:17 (UTC) [返信 ]
ウィキペディアでは出典を最初から正確に緻密に示す義務があるのは投稿者。他の読者は一切出典を補う義務はないし、それを期待してはいけない。それをいかなる形であれ要求したり、期待すること自体がすでにルール違反。あくまで文章と出典を結びつける義務があるのは投稿者自身。他者にそれを押しつけては絶対にダメ。そもそも、最初の投稿の瞬間に、個々の文章に出典がある証拠が無かったら、他のウィキペディアンは即時消去したり、要出典タグをつけて非表示にしてかまわない、というのがルール。他者はまず形式を見て、形式上出典がついていない文章はNGと判断して即時消去してよい。役所の手続きと同じ。まず形式で判断してよい。--221.188.21.62 2011年8月22日 (月) 19:47 (UTC) [返信 ]
それに、もともと「関連書」のリストだったもの(つまりFurther readingのリストだったもの)を、どこかのバカが、ウィキペディアにおける「関連書」と「参考文献」の意味の違いも知らずに、よりによって節名を「参考文献」と書き変えたらしい。例えば、これ[[1]]をよーく見てみろ。この段階で「関連書」と書いてある節にizayohiさんが書名を書き加えている。つまり、リストにあくまで「関連書」として書き加えたわけだ。参考文献としてではない。
だからこんなリストを参考文献として扱えるわけがない。Kanoharaさんの主張は無理があって、話にならない。とんでもない主張だ。二度とそういう主張をするな。--221.188.21.62 2011年8月22日 (月) 20:07 (UTC) [返信 ]

今回の件でもよーく分かった。やはり、形式上<ref>タグで文章と結びつけられてない文献は、ほとんどサギ、ペテンだ。何ら参考文献として表示される権利は無いのだ。やはり、形式上<ref>タグで結びつけていない文献を「参考文献」として表示するなどというのはサギ、出典偽装の温床になる。そういうデタラメは絶対に許すべきではない。--221.188.21.62 2011年8月22日 (月) 20:14 (UTC) [返信 ]

コメント 私もホームグラウンドとしている漫画や小説やアニメを主題とした記事では、時折他の編集者から「こんなに脚注が多いと読みにくいのでは?」などと苦言を呈されつつ、せっせと細かく原典やアニメ雑誌記事のページ番号を振って脚注だらけにしているクチです。頑張って脚注を増やしても功を労われることは少なく、たいてい脚注の数が150個を超える頃になると、大なり小なり他の編集者とトラブルになります。221.188.21.62さんの憤慨も分からなくもありません。
ですがその憤慨は違うでしょう。当初は関連書籍であったものを後から参考文献に組み入れた方も、参考文献を追加した方も、ひょっとしたらその文献に当たった上で、「記事に書いてある内容は、その文献と比較して嘘偽りのない事実である」ことを確認し、その意味で参考文献として組み入れているかも知れないのです(Wikipedia:善意にとる)。後から独自研究のように見える加筆を行っている方も、ひょっとしたら参考文献として列挙されている書籍を参照した上で、記事の内容を付け加えているのかも知れません。もちろん、参考文献に当たった上で、それが記事に書かれている内容と乖離があることが確認できたのであれば、それはサギ、ペテンであるとして除去の対象、あるいは出典の提示が望ましい情報として{{要出典}}を付与する対象ということになるでしょう。ですが参考文献の内容を確認せずに、あれこれ言うのは真っ赤な濡れ衣であるかも知れないのです。
私だって、文献を確認して、せっせとページ番号を脚注を用いて明示して、検証可能性に万全を期している記事において、「私はその文献を読んだことがないし、これからも読む気がない。だから私の読んだことのない文献には検証可能性がない」などと言いがかりをつけられたりしたら、そりゃもうブチ切れます。出典のない記述を除去したり要出典をつけたりするのは自由ですが、出典のある記述はそうではありません。結局のところ、脚注にしろ記事末尾にしろ、出典が示されている記述の内容に異を唱えるとき、その出典を確認していない者の主張に根拠はないのです。そういう意味で、文章の内容と一致しているか否かが怪しいGeneral Referenceは厄介な存在であり、実際に是非を巡って論争があり、まあ確かに個人的にも将来的には廃止して欲しい参照方法ではあるのですが、だからと言って憶測で決めつけるのはどうかと。
あと、疑わしい加筆をした者が何者であるかが履歴から判明しているのであれば、その編集者本人の会話ページで質問してみるのも良いかと思いますがどうでしょうか?--Kanohara 2011年8月22日 (月) 22:00 (UTC) [返信 ]

それを言うなら、ip氏が指摘していること、その意図のほうをWikipedia:善意にとるべき。

それと、Wikipedia:善意にとるは、それをふりまわして出典不明の独自研究の文章を残していいかというと、そういう効力はまったくない。あくまで、ウィキペディアン同士がノートで会話している時などに喧嘩にならないようなためのガイドライン。Wikipedia:善意にとるのルールを勝手に恣意的に解釈して濫用しないように。

もともと不正な手続きで参考本が出典に偽装されただけ。出典の偽装は、ウィキペディアでは極めて重大な犯罪とみなされている。というのは、もともとウィキペディアでは投稿者以外は出典を検証する義務はまったくなく、そういう要求をすること自体が重大なルール違反なのに、出典の偽装をやる輩がわずかでも存在すると、他のウィキペディアンから見ると、本当に出典が用いられているかまったく信頼できなくなり、実際上、一文一文 出典の現物を検証してみないことには安心して読むこともできない、という事態に追い込まれてしまうからだ。考えてみるがいい、出典であるかのような本をいちいち通販や図書館で取り寄せて(しかもいったい出典の何ページ目から出典として用いているのかも分からない状態のものをベタにチェックせざるを得ず)、ひとつの記事を安心して読むのに各人ひとりひとりが何百時間もの作業をしなければならなくなる。それではウィキペディアは使い物にならない代物になってしまう。 こういう悲惨な事態を招くから、出典の偽装は重大な犯罪であるとされていて、ウィキペディアの管理者の方々も出典の偽装に対してはピリピリして怒っているのだ

この記事のケースを考えるに、常識的にどう考えても、行為的に善意に考えてあげても、出典としているとは到底判断されない。ともかく、実際に参考本のリストにすぎなかったという経緯があったので、誰かが「この節あたりで『xxxxxxxxx』という本を出典として使いましたよ。具体的に示さなくてすみませんでした。」と、このノートで自己申告した本に限り、参考文献に上げることを許すべき。その申告内容と、過去の履歴と、ログイン名あるいはプロバイダ名の3点が一致しているかチェックしてもし一致していれば、参考文献に格上げするのに誰も反対しないだろう。必要なのは具体的な証拠。--124.85.143.230 2011年8月23日 (火) 02:08 (UTC) [返信 ]

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