中島信行
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中島 信行(なかじま のぶゆき、弘化3年8月15日(1846年 10月5日) - 明治32年(1899年)3月26日)は明治時代の政治家。男爵。通称は作太郎。長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。
略歴
土佐国高岡郡塚地村(現・高知県 土佐市塚地)の郷士・中島猪三の長男。少年期に耕余塾へ通う。武市半平太の土佐勤王党に加盟、のちに脱藩して長州藩の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍した。龍馬の死後は陸援隊に参加する。
維新後は新政府に出仕し、外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。保安条例によって横浜へ追放された後、第1回衆議院議員総選挙で当選して初代衆議院議長に就任。その後は1893年にイタリア駐在特命全権公使、1894年には貴族院議員に勅選。1896年6月、維新の功により男爵を授けられる。1899年、療養中の大磯別邸にて死去。享年54。
エピソード
会津戦争の折に、1人の土佐藩士の小隊長が会津藩家老西郷頼母邸へ突入したが、その時には西郷の家族が皆自刃していた。ただ、1人の少女だけが死に切れずに悶え苦しんでおり、遠い意識の中で小隊長に「あなたはお味方か?それとも敵か?」と聞いた。小隊長は「味方です」と答えると少女は安心した表情で「武士の情けを」と懐から短刀を出して介錯を乞うた。小隊長は苦しむ彼女に止めを刺すとその場で号泣したと言う。この小隊長が中島信行であると広く言われている(「会津戊辰戦史」他)が、略歴の通り、この時点ではそもそも会津戦争に従軍していなかった可能性もあり疑問が残る。
議会 | ||
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先代 (創設) |
日本の旗 衆議院議長 初代:1890 - 1891 |
次代 星亨 |
公職 | ||
先代 大江卓 (権令) |
神奈川県令 官選第2代:1874 - 1876 |
次代 野村靖 (権令) |
党職 | ||
先代 (結党) |
自由党副総理 初代:1881 - 1884 |
次代 (解散) |