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遣唐使

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遣唐使(けんとうし)とは、『旧唐書』や『新唐書』にも記されているとおり、倭国に派遣した朝貢使のことをいう。中国では619年が滅びが建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。

平城遷都1300年記念事業に際して平城宮跡で展示された復元遣唐使船

遣唐使の目的

海外情勢や中国の先進的な技術や仏教経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。

第一次遣唐使は、630年(舒明2)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である倭国の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。

  • 貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
  • 太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)

その後、唐僧維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であったの文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。

回数

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。

他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数 出発 帰国 使節 その他の派遣者 船数 備考
1 舒明2年
(630年)
舒明4年
(632年)
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧帰国
2 白雉4年
(653年)
白雉5年
(654年)
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) 道昭定恵 2 第2船が往途で遭難
3 白雉5年
(654年)
斉明元年
(655年)
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 2 高向玄理は帰国せず唐で没
4 斉明5年
(659年)
斉明7年
(661年)
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使) 伊吉博徳 2 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
5 天智4年
(665年)
天智6年
(667年)
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日
(6) 天智6年
(667年)
天智7年
(668年)
(送唐客使)伊吉博徳 唐使法聡を送る。唐には行かず?
7 天智8年
(669年)
不明 河内鯨(大使) 第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
8 大宝2年
(702年)
慶雲元年
(704年)
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) 山上憶良道慈 4
9 養老元年
(717年)
養老2年
(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使) 阿倍仲麻呂吉備真備玄昉井真成 4
10 天平5年
(733年)
天平7年
(735年)
多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成大伴古麻呂 4 帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
(11) 天平18年
(746年)
- 石上乙麻呂(大使) - 停止
12 天平勝宝4年
(752年)
天平勝宝6年
(754年)
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 4 鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
13 天平宝字3年
(759年)
天平宝字5年
(761年)
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成 1 渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国
(14) 天平宝字5年
(761年)
- 仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使) 船破損のため停止
(15) 天平宝字6年
(762年)
- (送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 唐使沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止
16 宝亀8年
(777年)
宝亀9年
(778年)
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使)
4 大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡
17 宝亀10年
(779年)
天応元年
(781年)
(送唐客使)布施清直 多治比広成 2 唐使孫興進を送る
18 延暦23年
(804年)
大同元年
(806年)10月
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使) 最澄空海橘逸勢霊仙 4 石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
19 承和5年
(838年)
承和6年
(839年)
藤原常嗣(大使)
/小野篁(副使)
円仁 4 承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
(20) 寛平6年
(894年)
- 菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使) 停止。ただし大使の任は解かれず。
  • 次数は20回説を採用。
  • ()は入唐しなかった遣唐使。
  • 送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。

航路と遣唐使船

遣唐使の航路

遣唐使船は、大阪 住吉住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市 住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川駅)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て那の津(福岡県 福岡市)に至る。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。

  1. 630年〜665年の航路...北路
    • 北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。半島情勢の変化により使用できなくなる。
  2. 702年〜752年の航路...南島路
  3. 773年〜838年の航路...南路

663年白村江の戦いで倭国は朝鮮半島での足場が無くなり、676年新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成し得たため、倭国は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。そのため、南島路や南路が開発された。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から倭国に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。

遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用いていた。横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海であった。この原因を航海技術が未熟であったためとする見方が主流であるが、佐伯有清は遣唐使船の大型化、東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。しかし、遣唐使は朝貢の使いであるという性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件のよくない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。

派遣者一覧

遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による) 大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅、奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人 挟杪・水手長・水手など

遣唐使の停止

では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は、洛陽長安を陥落させ、(880年 - 884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

このため遣唐使は、894年(寛平6)の派遣が菅原道真の建議により中止された。907年(延喜7)には唐が滅亡し、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

映像作品

映画『天平の甍』(1980年 東宝 原作:井上靖、監督:熊井啓)

関連項目

参考文献

著者は最澄円仁研究などで著名、旧版は講談社現代新書
  • 『遣唐使の見た中国と日本 新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』
専修大学、西北大学共同プロジェクト編、朝日選書 ISBN 4022598808

外部リンク

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