遣新羅使
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遣新羅使(けんしらぎし)とは、日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。
背景・前史
日本(倭国)は4世紀に新羅を「臣民」としたことが「広開土王碑」に見え、451年(元嘉28年)には宋から済が「使持節都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」(『宋書』倭国伝)にされるなど、一定の交流関係があったことが推定されている[1] 。『日本書紀』によると、6世紀、新羅真興王に伽耶が滅ぼされるなど極度に緊張した日羅関係下にも、新羅から倭国へは任那の調の「朝貢使」や高句麗使の送使などを名目とした使者の派遣があり、倭国からも推古朝の草壁吉士磐金、皇極朝の草壁吉士真跡、高向博士黒麻呂などの新羅への派遣があったことが記録されている[2] 。
特に遣新羅使が頻繁に任命されるようになったのは、唐の進出により百済が滅亡し、白村江の戦いにより唐との関係が緊張してからである。このような状況の下、日本と唐は遣唐使を行うなどで関係改善しつつあったが、唐が日本を征伐するという風聞があったこと、668年に高句麗の宝蔵王が唐に投降したことで唐からの圧力が強まったことに危機感を覚えた新羅との利害が一致したことなどから共同で対抗しようとする動きの一環として頻繁な交流が始まったと考えられている。新羅が朝貢形式を取って使者を派遣してきたこと、白村江の戦いにおいて日本と新羅との直接的な戦闘がほとんどなかったことなどから、日本側も受け入れやすかったと推定されており、日本側の目的としては、先進技術の収集のほかに、海外情勢の調査もあったと考えられている。
経緯
統一新羅からの第1回目の使者の帰国に際しては、朝廷から新羅王に対して船1隻、絹50匹、綿500屯、韋100枚が賜与されており、当時の朝廷の対新羅観を見ることが出来る。このころには新羅への留学僧が帰国後重用され、日本の律令官制の特徴である四等官への新羅官制の影響が認められるなど日羅関係は極めて良好であった。
しかし両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。735年(天平7年)入京した新羅使は、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した[3] 。このころ、渤海の成立を受け新羅と唐の関係が修復されてきており、渤海も日本へ遣日本使を派遣していることが関係していると見られている。翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[3] 。
752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、朝貢した[3] 。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている[3] 。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[3] 。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[4] があり、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していたとも考えられている[5] 。
しかし翌753年(天平勝宝5年)には唐の朝賀で遣唐使 大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[3] 。この年の遣新羅大使は、新羅で「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」(『三国史記』)と王(景徳王)に謁することが出来なかった[3] 。このような緊張関係のもと、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海との連携により軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画を立てたものの、国内情勢の変化や渤海側の事情の変化等により中止されている[6] 。
『日本後紀』によると、780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。
遣新羅使一覧
統一新羅時代のもの。なおこの一覧は最も一般的な28回説を採用している。
回数 | 派遣年 | 元号(日) | 正使名 | 日本天皇 | 新羅王 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 668年 | 天智天皇7年 | 道守臣麻呂 | 天智天皇 | 文武王 | 新羅使金東厳の帰国に同行 | 日本書紀 |
2 | 670年 | 天智天皇9年 | 阿曇連頬垂 | 天智天皇 | 文武王 | 日本書紀 | |
3 | 675年 | 天武天皇4年 | 大伴連国麻呂 | 天武天皇 | 文武王 | 日本書紀 | |
4 | 676年 | 天武天皇5年 | 物部連麻呂 | 天武天皇 | 文武王 | 日本書紀 | |
5 | 681年 | 天武天皇10年 | 釆女臣竹羅 | 天武天皇 | 神文王 | 日本書紀 | |
6 | 684年 | 天武天皇13年 | 高向臣麻呂 | 天武天皇 | 神文王 | 観常を伴い帰国 | 日本書紀 |
7 | 687年 | 持統天皇元年 | 田中朝臣法麻呂 | 持統天皇 | 神文王 | 天武天皇の喪を伝達 | 日本書紀 |
8 | 692年 | 持統天皇6年 | 息長真人老 | 持統天皇 | 孝昭王 | 日本書紀 | |
9 | 695年 | 持統天皇9年 | 小野朝臣毛野 | 持統天皇 | 孝昭王 | 副使伊吉博徳 | 日本書紀 |
10 | 700年 | 文武天皇4年 | 佐伯宿禰麻呂 | 文武天皇 | 孝昭王 | 続日本紀 | |
11 | 703年 | 大宝3年 | 波多朝臣広足 | 文武天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
12 | 704年 | 慶雲元年 | 幡文通 | 文武天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
13 | 706年 | 慶雲3年 | 美努連浄麻呂 | 文武天皇 | 聖徳王 | 義法を伴い帰国 | 続日本紀 |
14 | 712年 | 和銅5年 | 道君首名 | 元明天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
15 | 718年 | 養老2年 | 小野朝臣馬養 | 元正天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
16 | 719年 | 養老3年 | 白猪史広成 | 元正天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
17 | 722年 | 養老6年 | 津史主治麻呂 | 元正天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
18 | 724年 | 神亀元年 | 土師宿禰豊麻呂 | 聖武天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
19 | 732年 | 天平4年 | 角朝臣家主 | 聖武天皇 | 聖徳王 | 続日本紀 | |
20 | 736年 | 天平8年 | 阿倍朝臣継麻呂 | 聖武天皇 | 聖徳王 | 新羅の「欠常礼」を奏上 | 続日本紀・万葉集(巻十五) |
21 | 740年 | 天平12年 | 紀朝臣必登 | 聖武天皇 | 孝成王 | 続日本紀 | |
742年 | 天平14年 | (不詳) | 聖武天皇 | 景徳王 | 「不納」(新羅側受入拒否)(『三国史記』) | 三国史記 | |
22 | 752年 | 天平勝宝4年 | 山口忌寸人麻呂 | 孝謙天皇 | 景徳王 | 続日本紀 | |
23 | 753年 | 天平勝宝5年 | 小野朝臣田守 | 孝謙天皇 | 景徳王 | 「王不見之」(『三国史記』) | 続日本紀 |
24 | 779年 | 宝亀10年 | 下道朝臣長人 | 光仁天皇 | 恵恭王 | 遣唐使判官海上三狩らを迎える | 続日本紀 |
25 | 799年 | 延暦18年 | 大伴宿禰峰麻呂 | 桓武天皇 | 昭聖王 | 停遣新羅使(派遣中止)(『日本後紀』) | 日本後紀 |
26 | 803年 | 延暦22年 | 斎部宿禰浜成 | 桓武天皇 | 哀荘王 | 唐の消息調査 | 日本後紀逸文(『古語拾遺』識語) |
27 | 804年 | 延暦23年 | 大伴宿禰岑萬里 | 桓武天皇 | 哀荘王 | 遣唐使船の消息調査 | 日本後紀 |
28 | 836年 | 承和3年 | 紀三津 | 仁明天皇 | 興徳王 | 遣唐使船の消息調査 | 続日本後紀 |
航路
遣新羅使のとった航路については正史にはほとんど記載がないが、736年(天平8年)の阿倍継麻呂大使の遣新羅使一行の詠んだ歌は万葉集巻十五の大半を占めているため、その行程がある程度分かっている[7] 。
一行は難波の津を船出した後、瀬戸内海を進み、途中風早浦(現東広島市)、倉橋島、分間浦(現中津市)などを経由し筑紫舘に到った。その後、韓亭(唐泊、能許亭、現能古島)、引津亭(現糸島市)から狛嶋亭(現神集島)に渡り、壱岐島、浅茅浦、竹敷浦(ともに現対馬市)を経て新羅へと向かっている[7] 。
移入された文物
新羅から移入された文物は、前述の金の他にも銀などの金属、高級織物、ラクダ、オウム、クジャクなどの珍しい動物もあった。また、正倉院宝物の鳥毛立女屏風の下張りに使われた『買新羅物解』を根拠に、香料、薬物、顔料、染料、器物、調度なども移入され、そのうち必要品を朝廷が確保した後、余剰品は希望者に払い下げられたとする見解がある[5] 。
脚注
- ^ 『日本書紀』には、「日本」が新羅と戦闘し勝利した記事が見える。また、『隋書』』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には「新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來」とある。
- ^ 直木孝次郎 1968 ほか
- ^ a b c d e f g 吉田孝 1997
- ^ 和田軍一「淳仁朝に於ける新羅征討計画について(一)」 1924
- ^ a b 東野治之 1988
- ^ 網野善彦 1997、酒寄雅志 2001
- ^ a b 青木和夫 1965ほか
参考文献
この項目では、全体に森公章『「白村江」以後』を参照しつつ、吉田、直木、青木と合わせて記述した。このため、森『「白村江」以後』は脚注などでは特に触れていない。
- 青木和夫『奈良の都』中央公論新社、2004年(初版1965年)、ISBN 4122044014
- 網野善彦『日本社会の歴史(上)』岩波書店、1997年、ISBN 4004305004
- 酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年、ISBN 475173170X
- 東野治之『正倉院』岩波書店、1988年、ISBN 4004300428
- 直木孝次郎『古代国家の成立』中央公論新社、2004年(初版1968年)、ISBN 4122043875
- 森公章『「白村江」以後』講談社、1998年、ISBN 4062581329
- 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
- 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』講談社、2001年、ISBN 4062689049
関連項目
外部サイト