河瀬城
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河瀬城 (滋賀県) | |
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城郭構造 | 寺院一体型平城 |
築城主 | 河瀬大和守秀宗 |
築城年 | 1500年代前半? |
主な城主 | 河瀬大和守秀宗 |
廃城年 | 1500年代後半? |
指定文化財 | 彦根市史跡 |
再建造物 | 法蔵寺 |
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概要
郡家を勤めていた犬上君 (いぬかみのきみ)の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に築城した。同時期に出城として甘呂城を築いた。しばらくは出城である甘呂城と共に周辺を統治していたが、1552年 10月28日に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿ったが、周囲を包囲されたため降伏した。これにより城は荒廃しつつあったが、仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。廃城は諸説あるが、関ヶ原の戦い以前1500年代後半ごろとされている。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。
河瀬氏
上述の犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀大社の大神主として実権を握っていた。