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田原総一朗

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田原 総一朗
生誕 (1934年04月15日) 1934年 4月15日(90歳)
日本の旗 日本 滋賀県 彦根市
出身校 滋賀県立彦根東高等学校卒業
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田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年 4月15日 - )は、日本ジャーナリスト評論家ニュースキャスター、元東京12チャンネル(現・テレビ東京)ディレクター、元映画監督である。

経歴・人物

滋賀県 彦根市出身。戦時中は人並みに軍国少年で、海軍兵学校進学を夢見ていたため、敗戦で前途を断たれた気分になったという。滋賀県立彦根東高等学校卒業。日本交通公社に入社し、1年後に早稲田大学 第二文学部(夜間学部)に入学。仕事と学業を両立させるも1955年大学中退後、早稲田大学 第一文学部史学科に再入学、1960年卒業。大学時代は小説家志望であったが、同世代の石原慎太郎大江健三郎の出現にショックを受けて断念。卒論では森鴎外を手がけた。

1960年に岩波映画製作所入社。カメラマン助手をつとめる。

1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。

東京12チャンネル編成部長を務めた後、1976年1月に退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、1987年朝まで生テレビ!」、1989年4月より「サンデープロジェクト」にも出演している。

2002年4月より早稲田大学 大隈塾 塾頭、2003年6月よりドリームインキュベータ社外取締役を務めている。

2009年1月、「フォーラム神保町」主催による「田原総一朗ノンフィクション賞」の創設が発表された。

東京12チャンネルからフリーへ

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  • 東京12チャンネル時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していたアナウンサーの小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
  • 田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビ牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦宝宮正章らのTBSテレビのドキュメンタリー番組、などが主流であった。当時、開局したばかりの「東京12チャンネル」は、インディーズ的存在であった。田原は、逆にそれを逆手にとって「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとった。田原の著書『青春この狂気するもの』に、この「確信犯的」な手法が書かれており、その本を読んで衝撃をうけた、原一男に手法が引き継がれた。
    • 当時、田原が親交があった清水邦夫内田栄一に「筋書き」を書いてもらい、出演者にそのとおり「行動」してもらう場合もあった。
  • ディレクターを務めたドキュメンタリー番組では視聴者の興味を惹くため、事実を曲げてまで脚色を行なっていたようである。番組で採り上げられたジャズピアニスト・山下洋輔の著作『風雲ジャズ帖』所収のエッセイ「真相『今も時だ』」に詳細あり。
    • 田原によると[1] 、山下が(文学的表現だろうが)「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、田原はバリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下に弾かせることを考えた。中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下が演奏した。後の作家、高橋三千綱や、山岳ベース事件で殺された山崎順もピアノを運んだという。また、このイベントは立松和平のデビュー作、『今も時だ』という短編小説も産み出している。
  • また、田原の著書『私たちの愛』によると、上記の山下の件以外にも、以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していたという。
    • ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。
    • 役者・高橋英二がガンで半年の余命しかないと発覚。さらに右腕を切断しないとならないとなり、その手術の場面を撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、やはり死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるシーンまで撮影した。
    • 全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。その余興として花嫁が列席者全員とセックスをすることとなる。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女をセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映されたが[2] 、レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の同棲相手)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。
      • 上記のエピソードをもとに、水道橋博士は著書『本業』において、田原を「日本で初めてのAV男優である」(浅草キッドと田原の対談「濃厚民族」に詳しい)と、面白おかしく評した。ビートたけしはその事実を知り、「田原って、あの政治の田原?うそつけ」と驚いた。なお、同書『本業』には、田原の言葉として「原一男は俺の作品の助監督だったんだよ」と記載されている。だが、当時の原一男は、田原の影響を受けてその周辺にはいたが、正式な「助監督」だったことはない。
  • 以下は原一男との対談からのエピソード
    • 「『わたしたちは......』〜カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが実際は、彼女は母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。そして、日記の記述のとおり、「二人で裸でパンを食べさせ」、日記の結末にあるとおり「二人で海に行かせた」。当時天井桟敷のスターだったカルメン・マキに変な男がついたということで、寺山***司が怒り、寺山と支那虎は口論して支那虎は退団したが、そのシーンまで撮影した。なお、支那虎は、その後、田原の作品の助監督をつとめた。
    • 役者「高橋英二」をとりあげた作品について。彼は、『七人の刑事』に何度か出演し、三島由紀夫の『黒蜥蜴』でもいい役をもらった、若手有望俳優だった。最初のシーンは国立がんセンターの病室だが、取材拒否されたため、内緒で撮影した。腕の切断手術シーンは田原は撮りたかったが、取材拒否されて撮影できなかった。手術直後に、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んで強姦しようとしたが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも、そのまま撮影した。高橋は「余命半年」と言われたが、実際は1年半生きた。
    • 「出発(その1)〜少年院をでたMの場合」、少年院で撮影してくれる少年を探したがなかなかみつからず、ようやく見つけた少年を、スタッフの安田哲男が保証人になって退院させた。
  • ATG 映画にて、1971年、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)。同映画のADが、後に『ゆきゆきて、神軍』の監督となる原一男であったと、よく誤解されるが、実際は原は助監督を熱望したが、かなえられなかった。
    • 上記の映画は、最初は、羽仁五郎の『都市の論理』を原作にして、ドキュメンタリー映画を撮ろうと企画していた。
    • 加納典明が演じた役は、田原は当初は、日大全共闘の議長の秋田明大に演じさせる予定であったが断られた。そのため、スティール担当として企画に関わっていた加納を、苦肉の策で起用した。
    • 桃井かおりが演じた役は、清水邦夫が「ニンフ的な少女がいい」ということで、当初は、結城アンナ(岩城滉一夫人)や、仁科亜季子が候補であった。だが、いずれにも断られ、チーフ助監督の尾中洋一が探してきた桃井かおりを候補にしたところ、彼女の母方の祖母が「有名な声楽家」だとわかり、「企画」担当の葛井欣士郎が尊敬していた人物だったことから、「あの先生の孫だ!」ということで、彼女に決定した。
    • チーフ助監督だった尾中洋一(のち脚本家)に原一男がインタビューしたところ、劇映画初体験の田原は、「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけられないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたところ、ある夜、田原が遠くに行き、闇で「ばかにするな-」と叫んだ。だが、撮影資金も乏しく、短期間で製作する必要があったため、そのまま田原を無視して撮影は続いた。
    • また「羽咋の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーンがあるが、警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。これは「田原的ドキュメンタリー手法も少しは取り入れないと」と、尾中が気を遣ったという。なお、プロの役者である石橋蓮司緑魔子は、「無能な監督・田原」に怒っていたという。
    • なお、「共同監督」のはずの清水邦夫は、ほとんど現場にこず、東京の舞台で行われた「リハーサル」を演出しただけだった。
    • つまり、この映画は、実質「尾中洋一監督作品」なのである。だが、当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、いくら現場で無能で役にたたない存在であっても、田原と清水はスポンサーであった。そのため、原一男1993年に尾中にインタビューするまで、この「事実」は隠されていたのだという。
  • 田原は文春でのインタビューの影響から、田中角栄に関する著書や記事を数多く寄稿している。その中の一つ『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にてロッキード事件は陰謀で田中角栄無罪であるとの陰謀論を展開している。しかしその内容が誤解伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容の殆どがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。そして、このことに関して田原は現時点まで再反論は行っていない。
  • また田原は創価学会名誉会長池田大作に複数回に渡って単独インタビューを行った。当時はオウム事件の影響で池田自身に証人喚問の要求が出ていた時期である。そして学会系メディア以外で池田はあまり登場しなかったので、インタビューは各方面で注目を集めた。
  • この時代のノンフィクションの代表作である、「原子力潜水艦むつ」問題を扱った、「原子力戦争」(1976年) はATG製作で映画化・公開されたが映画は原田芳雄扮するヤクザ原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。それでも問題作ということで事実上封印作品になっている。また田原は発表時脅迫されたという。
  • なお、この著書「原子力戦争」では、従来の田原ドキュメンタリー番組と同様に、関連する底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者など)に取材した。だが、実際にものごとを決めているのは、「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となった作品になったと、後に原一男に語っている。
  • 『原子力戦争』の内容は、国会でも話題となり、大手広告会社の逆鱗にふれ、田原は東京12チャンネルを退職することとなった。
  • 田原が東京12チャンネルを退職した直後に出した著書『翔べ田原総一朗』(創世社 1977年)の帯には、以下のような推薦文が書かれていた。当時の田原が、いかに高く評価されていたかが、わかる。
    • 野坂昭如「田原総一朗氏の文章に触れるたび、わが眼力衰えたるかなと、妙な繰り言をつぶやきたくなる。そして田原の存在をささえとして、衰えたなりに目をつぶることを、やめようと自らに言いきかせるのだ。」
    • 井上ひさし「誠実さと途方もない視野の広さを、田原総一朗はあわせ持っている。彼ほどまともな、堂々たる論客は、この国にはとても少ないのだ。これからも彼の「正論」にわれわれは、多くのことを教えられるだろう。」
  • 当時の田原のノンフィクションの興味は、企業や政治以外に、最先端科学も対象であった。近年の著書では科学関係のものは少なくなっているが、2006年に、『RNAルネッサンス 遺伝子新革命」という本を出していることからもわかるように、いまだに科学に興味を持ち続けているようだ。ただし、科学そのものには素人であり、その技術のもつ意義などは他人の論評の受け売りの場合が多く、科学技術を題材にしたルポなども技術ではなく、技術者や科学者の「生き様」に偏りがちになる。


朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト

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  • 朝まで生テレビ!』では、「初めから司会をしようなんて思っていない。僕は討論をぶっ潰すつもりでやっている」と主張。またタブーに切り込むという方針で天皇制原発被差別部落問題をいち早く取り上げた。同番組内で「メディア権力だ」との批判に対し、メディアは権力と言うより、むしろ大衆に迎合している側面が強いと言った主旨の発言をしている(大学時代の後輩である筑紫哲也も前出の岡留安則と雑誌で対談した際に同様の発言をして田原を擁護している)。
  • 歴史認識においては、「日清日露戦争は自衛戦争だが、満州事変日中戦争は侵略戦争」という認識を再三示している。これに異を唱える者には激しく反発する。たとえば、みずからの番組内で満州事変以降の戦争を「全体としては自存自衛、セキュリティ(安全保障)のための戦争だった」と述べた高市早苗(衆議院議員)に対し激昂し、「僕はね、靖国神社はあっていい、参るのもいいと思うけど、こういう下品なの、憎たらしい顔したのが集まってるから可哀想だよ」と罵倒した。ただ、2009年4月「朝まで生テレビ」において「僕はね、極東国際軍事裁判は正しくないと思ってる。なぜなら戦勝国が戦敗国を裁くんだから。こんなものは集団リンチだよ。...ソ連は日ソ中立条約を破ってきたんだぞ。あんなものは明らかに戦犯だぞ」と極東国際軍事裁判については不正との認識を示した。
  • 女性・女系天皇を可能にする皇室典範改正を支持している。これに反対する四宮正貴に対して「聖徳太子、知ってる?」などと発言、四宮正貴が「聖徳太子を知らないのかとは何事だ。君はイエス・キリストを知っているのか」と激怒した。
  • サンデープロジェクト』では菅直人年金未納問題に絡む代表辞任騒動の討論で、自身の過失ではなく、行政の過失(後に武蔵野市が菅に謝罪の書面を送付。また小泉純一郎当時首相の国会答弁により菅の冤罪が確定。ただし、当時の厚生労働省の最高責任者たる厚生大臣は菅自身であっため、社会保険庁の過失という事実が判明後もほとんど報道されなかった。)から年金未納期間が生じた菅を激しく非難。民主党代表辞任を決定的とした。
    しかし、田原自身に年金未納期間(1977年2月〜9月)があったことが発覚。翌週、番組において謝罪。
  • 日本共産党が公表した宮澤内閣時代の内閣官房報償費(所謂官房機密費)の会計記録で田原が香典代として5万円を受け取っていたことが明らかになり田原も番組内でこれを認めた(当時の官房長官は加藤紘一)。またこれ以前に写真週刊誌 フォーカス(現在は休刊)で100万円単位で内閣官房報償費を受け取っていた疑惑を報道された。田原はこれを否定しているが、真相は未だ不明。
  • 筑紫哲也の著書『ニュースキャスター』によると田原は「(番組を)引退をしようにも後を継げる人がいないから(番組を)続けるしかない」と発言をしている。また前出の岡留安則と雑誌で対談した際には「倒れるまで番組を続ける」趣旨の発言をしている。
  • 番組の取り仕切り方に関しては賛否両論ある。『朝まで生テレビ』にパネラーとして出演したある海外メディアの特派員は週刊誌のインタビューで「司会者というよりも支配者として(番組を)仕切っている」と批判する一方で、政治家の加藤紘一は、「この番組は政治家にとって非常に出るのが怖い番組なんですよ」と番組内で発言。こうした批判に対し田原は、本音に迫ることの効用の高さを評価している。
  • 田原は小泉首相と拉致被害者家族会とのやり取りをテレビで見ながら『2ちゃんねる』の反応を見て「これで世論が変わる」「マスコミのミスリードにいら立っていた人々が、『2ちゃんねる』と同様の反応をしたのだと、わたしは捉えている」と雑誌で発言した。
  • 政治改革関連法案の可否をめぐり自民党が紛糾していた1993年「総理と語る」にて総理の宮澤喜一に対し執拗な挑発を行い、「やります、やるんです」との言質を取ったが、政治家改革関連法案が廃案にされると、そのインタビューの模様が何度も放映され、宮澤が退陣に追い込まれるきっかけを作った。
  • 2000年に小渕恵三首相が番組にブッチホンして総理の単独会見は認められないと記者クラブから抗議された(その一方で同じく小渕首相が電話出演した日本テレビはお咎めなしだった)。
  • 北京五輪に際して中国のラサにて人権弾圧をされているチベット人が抗議活動を行った。その抗議に中国政府は武力弾圧をしたことが報道され、世界の報道機関や日本のマスコミもチベット人死者数について中国政府側主張とチベット側主張の両方を取り上げていたが、田原は自身のコラム[4] にて、「日本のマスコミは死者数を140人と報じているが、これはチベットの反政府運動側の発表であり、中国側は20人と言っている。日本のマスコミは多い方を書く等、これは偏向報道だ」「中国では世間で言われているより開放が進んでいる」と発言している一方、日中ジャーナリスト交流会で「中国は外国人ジャーナリストを受け入れるべき」と中国側に発言し、別の記事で「中国には中華思想なるものが未だ根強く残っている」「中国は間違いを認めたがらない」と中国を批判する発言をしている。
  • 中国人監督の作った映画靖国 YASUKUNIを公開前から支持しており、映画に関しての論争が起こったが、「日本の政治家の圧力により、出演者が拒否しはじめたのではないか」「日本の政治家の圧力により、上映中止の映画館が増えたのではないか」という主張を2008年4月6日の「サンデープロジェクト」や映画の記者会見等でした。
  • 近年、とくに小泉政権以降、政府与党(自民党)寄りの立場を鮮明にしている。たとえば、2007年参議院選の民主党マニフェストに対して、「岡田さん、前原さんのときは消費税3パーセント増税だったから良かった」、「財源が示されてない」、「インチキだ」と批判した。2008年ガソリン税暫定税率日銀総裁人事問題などに関して、小沢一郎民主党代表を指して、「民主党に約1名変なのがいる」、「政局にしようとしている」、「いつのまにか民主党は、北朝鮮のような党になっていたのだ。いつから民主党は、そんな情けない政党になってしまったのだろうか。これに比べれば自民党は、よほどマシである。」[5] などと述べている。また、自民党元幹事長中川秀直の選挙事務所立ち上げの際に応援に駆けつけるなどジャーナリストとしての範疇を超えた活動も行っている。
  • 元厚生次官ら連続殺傷事件についての議論でコメンテータが「政治家でなく官僚が狙われたことが問題」と発言した際、田原は「政治家を狙え」と発言した。

反ユダヤ主義発言疑惑

2009年3月、ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターは、同年3月8日のテレビ朝日『サンデープロジェクト』にて、田原が日本の政治スキャンダルの背後関係を不当にアメリカ合衆国政府やユダヤ人と関連付けたとして強く非難する声明を発表した[6] 。田原はこの番組で田中真紀子をゲストに迎えて議論中、「繰り返し言いたい。田中さんも、結局はやられた、と。ユダヤに。小沢さんもやられるんじゃないか」(田中は田中角栄、小沢は小沢一郎を指す)と聞きとることのできる発言をしており、これが問題視されたものである。同じ議論でロッキード事件による田中角栄逮捕の背後関係にアメリカ合衆国政府の影響があるとも述べていた。これに対しテレビ朝日広報部は「ユダヤ」ではなく「有罪」と述べたものであるとの判断を示している[7]

拉致被害者「生きていない」発言

2009年 4月25日放送の「朝まで生テレビ」において、北朝鮮による日本人拉致問題の被害者の有本恵子、横田めぐみの安否をめぐり、「外務省も生きていないことは分かっている」 と発言した。

5月11日、北朝鮮による拉致被害者の家族会と支援団体「救う会」から、テレビ番組で根拠のない発言をしたとして、テレビ朝日の君和田正夫社長と田原に抗議文書が送付された。田原はこれに対して、「家族のお気持ちは分かる。しかし、私は事実を言ったまでだ。情報源は言えないが情報を得ている」とし、両名が既に死亡しているとの見解を崩さなかった[8]

5月19日、外相・中曽根弘文は、閣議後の記者会見において、一連の田原の発言に対して、「大変遺憾で非常に誤解を与える発言だ」「外務省は安否不明の拉致被害者はすべて生存しているとの立場、前提に立っている。田原氏の発言はまったくの誤りで残念に思う。一日も早い拉致被害者の帰国に努力している人たちに失礼な話だ」と発言した[9] 。同日、田原は「人の生死に関する問題を、具体的な情報源を示すことなく発言したことは深く反省している。横田さんたちが生きていることを心から望んでいる。言葉が足りず、大変申し訳ない」と謝罪した[10] が、情報源については公表しなかった。

7月16日、有本の両親が田原を相手取り、精神的苦痛を受けたとして、1000万円の慰謝料を求める訴えを神戸地裁に起こした。これに対し田原は「表現は乱暴だったが、外務省高官への取材に基づく発言であり、今後、法廷で主張していく」とコメントした[11]

その他

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  • 小学生時代は担任の先生の発言の動機を尋ねる事に熱心であった。
  • 18歳の時、新制高校に入学した際、体制の変化に伴い、戦時下とは180度異なった「正義」を語る教師たちに不信感を抱く。「何事も自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければ、この世は生きていけない」という人生訓を得た。
  • モスクワ留学中に、監視員が絶えずつくことや、生産目標を達成するために机などの製品がとてつもなく重く造られていることなどから社会主義にやや疑問を感じるようになった。
  • かつては作家中山千夏らの左派政党革新自由連合に関っていたこともある。また、中山らとの関わりで永六輔とも親しかったが、石原慎太郎を「文学者として尊敬する人物」と公言した事がきっかけで、石原を嫌う永から絶縁され、以来現在にいたるまで不仲。
  • 娘:田原敦子は、『世界の車窓から』、『徹子の部屋』のプロデューサーである。
  • 妻は元日本テレビ アナウンサーで、ウーマンリブ運動家でもあった田原節子(旧姓村上節子)。愛妻家として知られ、妻がガンと宣告された時・亡くした時と二度自殺を考えたという。現在でも遺骨を墓地に埋葬せず、自宅に保管している。葬儀は築地本願寺で執り行われ、葬儀委員長は電通成田豊が務めた。
  • 著書『私たちの愛』にて、「妻とはダブル不倫の末に(当時いた双方の配偶者と離婚した後)結婚。」とある。
  • メディアの公共性のあり方が問われている中で、田原は「いかに視聴率を上げるかが自分の役割だ。『いい番組なら視聴率が悪くてもいい』というのは、絶対に通用しない」とあえて視聴率至上主義を公言している。
  • 前述のように田原は当初「噂の真相」に連載を持っていたが、後に両者の意見の相違が生じ、同誌の批判の俎上に田原が上がることも珍しくなくなった。田原への批判としてよく使われる「電波芸者」と言う言葉も、同誌が最初につけたと言われている。だがそういった状況になっても両者の接触はたびたびあり、田原と岡留の対談は同誌発行中も休刊後も行われている。
  • 総理との対談番組において、宮沢喜一首相が政治改革を断行すると言質を取ったり、橋本龍太郎首相が恒久減税に関する言質を取ったことが、後の解散総選挙敗北や参院選敗北によって総理退陣をするきっかけに繋がった。
  • 『2ちゃんねる』管理人西村博之と雑誌「サイゾー」で対談をしたことがある。その対談の中で田原は『2ちゃんねる』に対し礼賛に近い発言をしている。この為、2ちゃんねるの暴走を奨励していたとして、批判派から徹底批判されている。
  • ムハハnoたかじんで入れ歯であることを告白し、放送中に入れ歯を外すという予想外の行動に出た。
  • 青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持っている。
  • 元衆・参議院議員(日本社会党所属)の上田哲は高校時代の英語講師で、恩師に当たる。
  • よど号事件実行犯である田中義三の友人葬で「田中さんは華々しく闘い『戦死』したと私は思っている」と述べた。
  • 中央公論2007年2月号に「私の仕事場」がグラビア見開き頁で紹介されている。部屋にはテレビだけでPCは無い。原稿は手書きである。
  • 2007年9月23日放送の『クイズ$ミリオネア』に出演。クイズ番組への登場はこれが初めて。同じく初めて出演したおすぎとともに、番組側からの5年に及ぶ交渉の末の出演だった。応援には古くからの友人である田中康夫が駆けつけた。
  • 夜間学部の早大第二文学部在学中、昼間は日本交通公社(現JTB)で働いていた。
  • 「田原総一朗のタブーに挑戦![12] 」というポッドキャストの番組をしている。
  • 爆笑問題のニッポンの教養』90分拡大スペシャル版(NHK)公開収録で太田光に向かって「そういう馬鹿なこといってテレビ出るなんて、とんでもないよ!」「ふざけるな!」と一喝。続けて田中角栄金権政治を賛美「田中角栄は、革命だ!!」「金権政治の何が悪い」「冷戦の方がよかった」などと放言、また司会者の爆笑問題を差し置いて番組を仕切りだした。早稲田大学の学生500人が見守る中、看板教授陣も含め3時間半にも及ぶ論戦を繰り広げた。
  • クメピポ! 絶対あいたい1001人』の中で極度の偏食家であることを明かしている。特に青い魚(青魚)と肉が苦手とも明かしている。そのため朝ご飯は決まったものしか食べていない。またこの番組内で生まれて初めてコーヒーを飲んでいる(いわく、「僕みたいな田舎者の飲む飲み物じゃない」)。
  • 原稿執筆の際は今でも手書きにこだわっている。書き方はかなの部分だけ書き、漢字は書きたい言葉をかなで振った後で最後にまとめて書くという珍しいスタイルをとっている。当初は妻が漢字を書いていたのだが、亡くなった後は自らが書いている。このようなスタイルになったのは「漢字を書くと書きたいと思ったことを忘れて書けなくなる」ため。
  • 人が話している最中にさえぎることが良くあり、一部からも批判がある。

著書

  • 現代青春の映像―しなやかな独歩行 時事通信社 1967
  • 愛よよみがえれ(清水邦夫との共著)栄光出版社 1967
  • 青春 この狂気するもの 三一書房, 1969.
  • テレビ公害うらおもて(編) 文化出版局, 1970.
  • 宣言 戦無派100人の思想と行動(編) 社会思想社, 1972
  • テレビディレクター 合同出版 1973
  • 青春-あらかじめ失われた時代 竹内書店, 1972
  • おさまり遅れ中年気質 筑摩書房, 1975
  • 大統領を知らない人たち アメリカで見たしたたかな生き方 実業之日本社, 1975
  • 原子力戦争 筑摩書房, 1976
  • 異常愛 ケーススタディ ドキュメント完全採録(編著、取材協力:原一男) エフプロ出版, 1976
  • 現代青春の映像 しなやかな独歩行 時事通信社 1976.6
  • 第三の性 ドキュメント エフプロ出版, 1977.4
  • 翔べ田原総一朗 テレビ全力投球 創世記, 1977.4. -嗚呼!花の十二年(年表):収録
  • 通貨マフィア戦争 文芸春秋, 1978.1
  • 穀物マフィア戦争 実業之日本社, 1978.2
  • 鉄神話の崩壊 潮出版社, 1978.6
  • アラブからみたニッポン ちはら書房 1979.3
  • 激烈なる漂流者 翔んだ男達の軌跡 ヒュ-マン・ドキュメント PHP研究所 1979.7
  • クールな宰相候補 ゲ-ムズマンとしての宮沢喜一 学陽書房, 1978.9.
  • 憂鬱なる密閉軍団 潮出版社, 1978.10
  • 8人の超権力者 その力の源泉をさぐる 学陽書房, 1979.6
  • 激烈なる漂流者―翔んだ男達の軌跡 ヒューマン・ドキュメント PHP研究所 1979.7
  • 辣腕 切れて出来てしたたかな10人(編著) 学陽書房, 1979.9
  • エネルギーマフィア 日刊工業新聞社, 1979.11.
  • 日本の官僚1980 文芸春秋, 1979.12
  • 日本のパワー・エリート この人びとが、あなたの運命を変える 光文社, 1980.3.
  • "異色"創業者の発想 勝ち抜くための12カ条 PHP研究所, 1980.11
  • 遺伝子産業革命 文芸春秋, 1981.6
  • 日本式支配者たち 中央公論社, 1981.7
  • 生存への契約 誰がエネルギーを制するか 文芸春秋, 1981.1
  • 電通 朝日新聞社, 1981.9
  • マイコン・ウォーズ 文芸春秋, 1981.12
  • 人を率いる トップリ-ダ-の研究 学陽書房 1982.4
  • 情報嗅覚入門 日本の、何を予知するか ベストセラ-ズ 1982.5
  • 時代を読むための取材ノート 話の特集, 1982.5
  • 先端技術時代の選択 あなたの会社は生き残れるか 二見書房, 1982.6.
  • 首領に迫る サンマーク出版, 1982.6
  • 人を率いる トップリーダーの研究 学陽書房, 1982.4
  • ビジネス・エリートの情報嗅覚入門 日本の、何を予知するか ベストセラーズ, 1982.5.
  • 「業際」の時代 プレジデント社, 1983.3
  • 電子戦争・メディア戦争 文芸春秋, 1983.3
  • 独創人間ここにあり 先端技術のトップランナ- 新潮社 1983.7
  • 新メディアウォーズ. 一般産業編 文芸春秋, 1983.7
  • 高度情報社会と企業・生活へのインパクトを探る 誤りなく生き抜くために 東京商工会議所, 1984.3
  • 生命探検 脳と老化 文藝春秋 1984.4
  • 新・内務官僚の時代 講談社, 1984.4
  • 日本をデザインするキーパーソン 潮出版社, 1984.7
  • 21世紀あなたはどうなる 講談社, 1984.8
  • 独創の狩人 先端技術の"最先端"に挑戦する! 旺文社, 1984.10
  • テクノコンフィデンシャル 企業挑戦・極秘情報 小学館, 1984.10.
  • 飽食時代の性 セックス・ウォ-ズ 文藝春秋 1984.11
  • ぼくだけの取材ノート 中央公論社, 1985.1
  • 外側発想新「学芸の時代」に向けて(小川明との共著)TBSブリタニカ 1985.2
  • 業態革命 新潮社, 1985.4
  • 平和 5時間闘論 なにを、いかにして守るのか 未來社 1985.4
  • ザ・ファーストランナー 筑摩書房, 1985.7.
  • 細胞に刻まれた未来社会(岡田節人との共著) 朝日出版社, 1985.10.
  • 世界企業(エクセレントカンパニー)・日本攻略司令官 ビジネス・アスキー 1985.12
  • 日本大改造 新・日本の官僚 文芸春秋, 1986.3
  • ソニーが叩き潰されない理由 松下・日立にジャンボトロンはつくれなかった ネスコ, 1986.1.
  • 世界企業・日本攻略司令官 ビジネス・アスキー, 1986.1.
  • 安倍・竹下にすんなり政権がいかない理由 日本のリーダーの条件 光文社, 1986.5.
  • 生きぬく銀行泣く銀行 講談社, 1986.5.
  • 戦後財界戦国史 総理を操った男たち 講談社 1986.7
  • ドキュメント東京電力企画室 文藝春秋 1986.9
  • 混迷日本の先を読む サバイバル・ウォーズに向けて プレジデント社, 1987.6
  • 逆境脱出のシナリオ 創意ある企業の現場から 新潮社, 1987.6
  • 時代を歩く 取材ノート'84〜'87 文芸春秋, 1987.8
  • 円を撃て マネー・ウォーズ最前線 講談社, 1987.9
  • 新・日本改造論 日本、そして企業はいま、何をなすべきか 世界文化社, 1987.11
  • 田原総一朗のパソコンウォーズ 90年代のパソコンをプロデュースする男たち 日本ソフトバンク出版事業部, 1988.12.
  • こうして円高に勝った 中央公論社, 1988.5
  • 巨大企業・復活への挑戦 生き残り革命の現場から PHP研究所, 1988.2
  • 産業大転回のシナリオ "脱成熟"時代の経営を求めて 日刊工業新聞社, 1988.10
  • 日本の創業超資産家たち なぜ彼らはビッグになったのか 徳間書店, 1988.5
  • 日米インテリジェンス戦争 アメリカが仕掛けたソフトの罠 文芸春秋, 1989.1
  • 柔らかな企業への変革 カリスマ経営からの脱皮 PHP研究所 1989.2
  • 知の旗手 潮出版社 1989.7
  • 闘論二千年の埋葬 日本人になにが起こっているか(栗本慎一郎との共著) ネスコ, 1989.7
  • 時代を仕掛ける 田原総一朗と10人の男たち(編) フジテレビ出版, 1989.9
  • 田原総一朗の新パソコンウォーズ あなたの知らなかった'90年代パソコンの現実(富田倫生との共著)日本ソフトバンク出版事業部, 1990.5.
  • テレビ仕掛人たちの興亡 講談社, 1990.3
  • 平成・日本の官僚 文芸春秋, 1990.3
  • 田原総一朗の発想現場 文芸春秋, 1990.9
  • 世代交代の嵐 トップ交代の現場 講談社 1990.11
  • 企業維新 90年代企業の生き残り戦略 PHP研究所, 1990.11
  • 第三の経営 "日本型"の壁を破る 世界文化社, 1991.1
  • 「円」を操った男たち―政財官マネー人脈の暗闘 講談社 1991.3
  • 脱・日本の知恵 時代の風はどこに吹くか 田原総一朗の風の現代史1991〜1992 徳間書店, 1991.7
  • 田原総一朗的発想! The fighting column 毎日新聞社, 1992.2
  • メディア王国の野望 文芸春秋, 1992.1
  • 決断 日本の防衛と対米戦略(田岡俊次との共著) リブロポート, 1992.3
  • 静脈思考 人類が共生するための知恵 文芸春秋, 1992.4
  • トップ経営者の新企業戦略 時事通信社 1992.7
  • 日本コンピュータの黎明 富士通池田敏雄の生と死 文芸春秋, 1992.9.
  • 福沢諭吉の名文句 組織の崩壊をどう生き抜くか 光文社, 1992.10.
  • 日本大改造案 いま、平成維新のときだ 激論(大前研一との共著) 徳間書店, 1992.11
  • 格闘宣言! 田原総一朗的発想2 毎日新聞社 1993.3
  • 日本が変わる、会社が変わる プレジデント社, 1993.12
  • 30代を生き抜く人生哲学 いま考えることは何か、やるべきことは何か(編著) PHP研究所, 1993.10
  • 無器用を武器にしよう 自分を面白くする知恵 青春出版社, 1994.2
  • うろたえるな、日本―アジアから見た日米関係(大前研一、ビル・トッテンとの共著)徳間書店 1994.10
  • 変革の時代を切り取る発想 文藝春秋 1995.1
  • いま、民主リベラル(久保亘との共著)社会民主党 1995.1
  • 田原総一朗の逆転勝ちの発想 先の見えない時代の15の自己戦略 青春出版社, 1995.7
  • 変革の時代を切り取る発想 文芸春秋, 1995.1
  • 日本の針路 真の「国益」を求めて 徳間書店, 1996.8
  • 「戦後五十年の生き証人」が語る 中央公論社, 1996.4
  • 田原総一朗の闘うテレビ論 文芸春秋, 1997.3
  • ウン(運)・ドン(鈍)・コン(根)がぼくの生き方 弱さを強さにするヒント 青春出版社 1997.6
  • 頭のない鯨 政治劇の真実 朝日新聞社, 1997.10
  • 日本再敗北(山田厚史との共著) 文藝春秋, 1998.4
  • 巨大な落日 大蔵官僚、敗走の八百五十日 文藝春秋, 1998.8
  • 田原総一朗の科学の巨人たち 人間圏はどんなユニットで21世紀を迎えるべきか KSS出版, 1998.8
  • 戦争論争戦 小林よしのりvs.田原総一朗(小林よしのりとの共著) ぶんか社, 1999.2
  • 金融・経済日本再生! 『自由競争』万能は間違いだ!!(榊原英資との共著) 扶桑社, 1999.3
  • 〈激論〉日本経済の「謎」を徹底解剖する(カレル・ヴァン・ウォルフレンとの共著)ビジネス社 1999.5
  • この国はどこへ行くのか―田原総一朗対談集 中央公論新社, 1999.5
  • 異端児になれる人出来損ないで終わる人 青春出版社, 1999.6
  • 結局、どうすりゃ売れるんですか。 ヒットメーカーに聞く、成功の秘訣 ぶんか社, 1999.7
  • 2000年からの大転換 回復の10年が始まる(長谷川慶太郎との共著) PHP研究所, 2000.2
  • 生き残りの戦略 学習研究社, 2000.9.
  • ジャパン・モデル 日本が米国を再び追い抜く日 PHP研究所, 2000.10
  • IT革命のカラクリ 東大で月尾教授に聞く!(月尾嘉男との共著) アスキー, 2000.11
  • 日本の戦争 小学館, 2000.11
  • 面白い奴ほど仕事人間 自分で「自分」を生きよう 青春出版社, 2000.12
  • 勝つ日本(石原慎太郎との共著) 文藝春秋, 2000.12
  • 日本はなぜ負ける戦争をしたのか。朝まで生テレビ!(責任編集) アスキー, 2001.8
  • 勝ち組」の構想力 21世紀、われわれはいかに富を創出するか (大前研一との共著) PHP研究所, 2001.7
  • 日本のカラクリ 朝日新聞社, 2001.5
  • 脱「ダメ日本」宣言(田中康夫との共著) アスキー, 2001.12
  • それでも、小泉純一郎を支持します Discover Japan 1955-2002 幻冬舎 2002.3
  • 勝つ経済(宮内義彦との共著) PHP研究所, 2002.8
  • 退場宣告 居直り続ける経営者たちへ(木村剛との共著)光文社 2002.9
  • 日本の政治 田中角栄・角栄以後 講談社, 2002.9
  • 日本のカラクリ21 小泉、真紀子政治と金テロから有事へ 朝日新聞社, 2002.8
  • 大逆転 新しい日本モデルの挑戦(御手洗冨士夫金子勝との共著) 東洋経済新報社, 2002.7
  • 日本よ!日本人よ!(編) 小学館, 2002.12
  • 私たちの愛(妻の田原節子との共著) 講談社, 2003.1
  • 「茹で蛙」国家日本の末路 日本が元気になる最後の一手(大前研一との共著) ビジネス社, 2003.6
  • 愛国心(西部邁姜尚中との共著) 講談社, 2003.6
  • 経営の極意 達人・田原総一朗が引き出す 幻冬舎 2003.8
  • 田原総一朗の早大講義録 政治・経済のカラクリ アスコム 2003.9
  • 日本の戦後 上 私たちは間違っていたか 講談社, 2003.9
  • 生きのびよ、日本!!(岡本行夫との共著) 朝日新聞社, 2003.12
  • 朝まで生テレビ!「愛国心」「国益」とはなにか。(責任編集) アスコム 2004.1
  • 田原総一朗の早大講義録2 アスコム 2004.3
  • 徹底討論!皇室は必要か 朝まで生テレビ!(責任編集) PHP研究所, 2004.9
  • 連合赤軍オウム わが内なるアルカイダ 集英社, 2004.9
  • もっと知りたい! 田原節子がん対論 知りたがり患者の命を延ばしたがんの新常識(妻の田原節子の編著)エビデンス社, 2004.11
  • 僕はこうやってきた(矢崎泰久構成) 中経出版, 2004.11
  • 戦後最大の宰相田中角栄. 上・下 講談社, 2004.12.
  • 最新・日本のカラクリ アスコム, 2004.4.
  • 田原総一朗の聞き出す力 仮説を立てられる奴が生き残る! カナリア書房, 2004.1
  • 日本の生き方 "定年"を迎えた戦後民主主義 PHP研究所 2004.12
  • 「小泉の日本」を読む 朝日新聞社, 2005.2
  • 国家と外交(田中均との共著) 講談社, 2005.11
  • 日本の力(石原慎太郎と共著) 文藝春秋, 2005.3
  • 田原総一朗の早大「大隈塾」講義録. 2005 激論!日本経済編(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著)ダイヤモンド社, 2005.5
  • 日本の戦後 下 定年を迎えた戦後民主主義 講談社, 2005.7
  • 経済神話のカラクリ アスコム 2005.7
  • 政治と権力のカラクリ アスコム 2005.7
  • メディアと権力のカラクリ アスコム 2005.9
  • 田原総一朗激論!日本の外交と経済(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2005.9.
  • オフレコ! Vol.1(責任編集) アスコム, 2005.8.
  • オフレコ! Vol.2(責任編集) アスコム, 2006.2
  • 大日本帝国民主主義 嘘ばかり教えられてきた!([[坂野�**治]]との共著)小学館 2006.4
  • テレビと権力 講談社, 2006.4
  • 田原総一朗激論!日本の憲法と経済(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2006.4.
  • RNAルネッサンス 遺伝子新革命(中村義一との共著) 医薬経済社, 2006.6
  • オフレコ Vol.3(責任編集) アスコム, 2006.8
  • 日本の戦争 封印された言葉 アスコム 2006.8
  • 憂国論 朝日新聞社, 2006.9
  • 市場浄化 講談社 2006.10
  • 田原総一朗誇りの持てる国誇りの持てる生き方(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2006.10.
  • オフレコ!別冊[永久保存版]昭和史のカラクリ「戦争」「天皇」「靖国」を徹底検証!(責任編集) アスコム 2006.12
  • オフレコ!別冊[最高権力の研究] 小泉官邸の真実 飯島勲前秘書官が語る!(責任編集) アスコム 2007.1
  • 田原総一朗誇りの持てる働き方誇りの持てる生き方(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2007.4.
  • オフレコ! Vol.4(責任編集)アスコム 2007.5
  • 正義の罠 リクルート事件と自民党-20年目の真実 小学館, 2007.6
  • BC級戰犯60年目の遺書 日本の戰争(監*** 田中日淳編)アスコム 2007.8
  • 日本、変革 ニッポンが見えてくる世界一エキサイティングな授業 ダイヤモンド社, 2007.11.
  • オフレコ!Vol.5(責任編集)アスコム 2007.11
  • 日本の大逆襲 「改革」「格差」を超えて、新しい成長が始まる(長谷川慶太郎との共著)PHP研究所 2007.12
  • 検察を支配する「悪魔」(田中森一との共著) 講談社, 2007.12
  • 再生日本 講談社, 2008.11
  • 再生力(野村克也との共著) イースト・プレス, 2009.3
他に、2005年から『田原総一朗自選集』の刊行が始まっている。

訳書

TVドキュメンタリー

田原の著書『翔べ田原総一朗』(創世社)巻末のリストより
  • 1965年
    • ガンに挑む
    • 海氷二つの顔
    • 救命ボート人影なし
    • 高所恐怖症
    • どぶねずみ
    • ルポルタージュ血
  • 1966年
  • 1967年
    • 異国の中の青春
    • フリーセックス時代〜青春ごっこ〜
    • 被害者の妻と加害者の妻と〜ある引き逃げ
    • フーテン作戦〜若者たちに何ができるか〜
    • 半日本人だった18年〜丁貞美の帰国
    • モノ・セックスの時代〜ミセスジェントと奇妙な男友だち〜
    • 学生右翼?〜11・12私は羽田にいた〜
  • 1968年
    • 若者たちの船〜わたしの沖縄
    • ジャンピング8
    • ドキュメンタリー青春「さらば沈黙の日〜音のない恋人たち」
    • ドキュメンタリー青春「新宿ラリパッパ〜このハレンチな魂の軌跡〜」
    • ドキュメンタリー青春「私は密輸団のルポ」
    • ドキュメンタリー青春「オレはどん百姓ボクサーだ」
    • ドキュメンタリー青春「出発(その1)〜少年院をでたMの場合」
    • ドキュメンタリー青春「出発(その2)」
  • 1969年
    • ドキュメンタリー青春「『わたしたちは......』〜カルメン・マキの体験学入門」
    • ドキュメンタリー青春「ガン番号53372〜片腕の俳優高橋英二〜」
    • ドキュメンタリー青春「連続射殺魔と13人の若者たち〜オレたちが生きた東京の四年間〜」-永山則夫
    • ドキュメンタリー青春「狂気する若者たち〜"紅毛美少女怨霊歌"由来〜」
    • ドキュメンタリー青春「バリケードの中のジャズ〜ゲバ学生対猛烈ピアニスト〜」 -山下洋輔
    • ドキュメンタリー青春「天皇と死と〜ある右翼青年の心情とその生〜」
    • ドキュメンタリー青春「暴発する19才」
  • 1970年
    • ドキュメンタリー青春「ちびっこ家族アフリカ大縦断」
    • ドキュメンタリー青春「ニャロメに何ができるか?」
    • ドキュメンタリー青春「オレはガンじゃない〜片腕俳優高橋英二の一年半〜」
    • ドキュメンタリー青春「卒業〜ある女子大生の体験的告白〜」
    • ドキュメンタリー青春「広場+死〜メーデーその50年の青春」
    • ドキュメンタリー青春「私は現在を歌う〜藤圭子 6月の風景」
    • ドキュメンタリー青春「あるピンク女優作家の肉体による共同幻想論」-鈴木いづみ(? 未確認)
    • ドキュメンタリー青春「あるコンビナートの夏の出来事」
    • ドキュメンタリー青春「ドギつく生きよう宣言〜もう一人の永山則夫三上寛〜」
  • 1971年
    • ドキュメンタリー青春「拝啓 藤純子様〜やくざ映画と人はいうけれど〜」
    • ドキュメンタリー青春「ある告白〜カルメン・マキの二年間〜」
    • 金曜スペシャル「日本の花嫁」
  • 1972年
    • ドキュメンタリーナウ!「総括! 知る権利〜連合赤軍から機密漏えい事件まで〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「蒸発の父親27年目の帰郷」
    • ドキュメンタリーナウ!「生き続けるゲリラ共同体〜若者はなぜ筑豊をめざす?〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「赤色エレジー〜だめなだめな若者たちの夏〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「英雄待望の時代〜戦争しか知らない若者たち〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「宣言ポルノ女優白川和子
    • ドキュメンタリーナウ!「早稲田解放戦線・虚と実」
  • 1973年
    • ドキュメンタリーナウ!「錬金術師阿久悠の大実績」
    • ドキュメンタリーナウ!「永田洋子その愛その革命その...」
    • ドキュメンタリーナウ!「原子怪獣積丹半島を襲う〜ある開発の波紋〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「もうひとつの死民〜阿賀野川レポート〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「僕たちの戦争〜戦車をとめた若者は〜」
    • ドキュメンタリーナウ!「空飛ぶ円盤がやってくる」
  • 1974年
    • シリーズ・特集「ニューヨーク番外地〜心やさしきマフィアたち〜」
    • 金曜スペシャル「実録マリリン・モンロー
    • シリーズ・特集「ウィンターソルジャー〜アメリカの戦後〜」
    • シリーズ・特集「ウィンターソルジャー〜黒人編〜」
    • シリーズ・特集「直撃・大企業のミドルは何を考える」
    • シリーズ・特集「法は誰のもの〜刑法改正是非〜」
    • シリーズ・特集「されどわれたが夏」
    • シリーズ・特集「新若者考〜シラケの季節をぶっとばせ〜」
    • シリーズ・特集「直撃 中核VS核マル
    • シリーズ・特集「あるテレビディレクターの投げた波紋」(未発表)
  • 1977年

脚注

  1. ^ 『僕はこうやってきた』p.147〜p.148
  2. ^ 当時の東京12チャンネルには「金曜スペシャル」のような過激な番組がゴールデンタイムに放送されていた。
  3. ^ 『僕はこうやってきた』P.125〜127
  4. ^ 『田原総一朗の政財界「ここだけの話」』
  5. ^ 前原誠司の勇気に応えよ Voice 2008年8月号
  6. ^ http://www.wiesenthal.com/site/apps/nlnet/content2.aspx?c=lsKWLbPJLnF&b=4441467&ct=6823949
  7. ^ http://news.livedoor.com/article/detail/4058580/
  8. ^ 拉致被害者:家族会などが田原総一朗氏とテレ朝に抗議毎日jp 2009年5月11日
  9. ^ 田原氏発言に外相が反論5月19日 産経新聞
  10. ^ 拉致家族に「申し訳ない」 田原氏の発言でテレビ朝日 朝日新聞 2009年5月19日
  11. ^ 「有本さんら生きてない」田原総一朗さんを提訴読売新聞 2009年7月16日
  12. ^ 田原総一朗のタブーに挑戦!ポッドキャストサイト

関連項目

外部リンク

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