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推古天皇

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推古天皇

時代 飛鳥時代
先代 崇峻天皇
次代 舒明天皇

誕生 554年
崩御 628年 4月15日
小墾田宮
陵所 植山古墳→磯長山田陵
別称 豊御食炊屋比売命
豊御食炊屋姫尊[1]
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛
子女 菟道貝蛸皇女
竹田皇子
小墾田皇女
尾張皇子
田眼皇女
皇居 豊浦宮小墾田宮

最初の天皇号使用者(異説あり)
欠史十代の一。
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推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年 4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年 1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝である。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着している[2] 。ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。『古事記』ではこの天皇までを記している。

  • 日本の歴史飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説あるが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的である。日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化という。
  • 妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。(分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき。(『古事記』)。小治田宮奈良県 高市郡

和風謚号

  • 『古事記』 - 豊御食炊屋比売命
  • 『日本書紀』 - 豊御食炊屋姫尊

系譜

天皇系図 26代 - 37代

第29代欽明天皇皇女で、母は大臣 蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。『日本書紀』に「姿色端麗・進止軌制」(「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)いた)と記される。

欽明天皇32年(571年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。敏達天皇5年3月(576年)、皇后 広姫の逝去を承け皇后に立てられ、敏達14年8月乙酉朔己亥(8月15日)(585年9月15日)、35歳のとき、敏達天皇が没した。ただし、『日本書紀』推古紀によれば18歳で皇后に立てられたとあり、これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。

菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけた。

用明元年夏5月(586年)、殯宮穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。

即位

その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(旧暦4月9日『古事記』では4月15日)(587年)に病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后飯豊皇女を歴代から除外した場合)。

その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく死去してしまう)。

皇太子・聖徳太子

翌年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。コーネル大学のアジア研究者ジョーン・ピゴットは、このような女性天皇と男性摂政というとりあわせを、祭祀の責務と行政の責務のあいだの対位法的な関係をベースにした相補型の共同統治であると述べている[3] シカゴ大学名誉教授で宗教史学者のジョゼフ・キタガワは、シャーマン的能力の持ち主で、血縁の男性を介して長期間の統治を行った受動的な女性最高権者である点が、邪馬台国卑弥呼に似ていると述べている[4]

推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。

遣隋使

このように、公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇15年(607年)、小野妹子に派遣した(実際には、俀国が600年に遣隋使をおくっている。また、これは12年の誤差があり遣唐使の可能性もある。) [5] 。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣された[5] 。翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。

推古天皇28年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなった。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いない。

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。

陵墓

詳細は「山田高塚古墳」を参照
推古天皇陵(磯長山田陵)

日本の歴史書である『古事記』には、「その年の9月20日に喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は奈良県 橿原市五条野の植山古墳とされている。後年、時期は不明ながら、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国 磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ、考古学名としては山田高塚古墳)に改葬された」とある。

在位年と西暦との対照表

在位年と西暦との対照表
推古天皇 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 593年 594年 595年 596年 597年 598年 599年 600年 601年 602年
干支 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌
推古天皇 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 603年 604年 605年 606年 607年 608年 609年 610年 611年 612年
干支 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申
推古天皇 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 613年 614年 615年 616年 617年 618年 619年 620年 621年 622年
干支 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午
推古天皇 31年 32年 33年 34年 35年 36年
西暦 623年 624年 625年 626年 627年 628年
干支 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子

参考文献

出典

  1. ^ 昭和18年発行の皇国青年教育協会編・日本出版配給刊『皇陵新志』比企修著、の116頁の「磯長山田陵」の記述によれば、(推古)天皇は、御謚は額田部(ぬかたべ)皇女と申し上げ、豊御食炊屋姫尊(とよみけかし・ぎ・やひめのみこと)と謚し奉る。という記載がある。
  2. ^ ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)。
  3. ^ ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、77頁。 (第2章5『推古天皇と聖徳太子』。さらに、本書は以下を出典としている。Piggott, 'Chieftain Pairs and Co-rulers', pp.18-19.
  4. ^ ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、76頁。 (第2章5『推古天皇と聖徳太子』。さらに、本書は以下を出典としている。Joseph M. Kitagawa, On Understanding Japanese Religion. Princeton: Princeton University Press, 1987, pp.104-105.
  5. ^ a b ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、79頁。 (第2章5『日本で最初の「天皇」』)。

関連項目

先代
崇峻天皇
天皇
第33代: 592年 - 628年
次代
舒明天皇
伝承の時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
南朝
北朝
室町時代
安土桃山時代
江戸時代
現代
  • 前の数字は代数。南朝を正統とする。
  • 名前の赤背景女性天皇
  • 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚
  • 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。
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