北条氏規
北条 氏規(ほうじょう うじのり、天文14年(1545年) - 慶長5年2月8日(1600年 3月22日))は戦国時代、安土桃山時代の武将。北条氏康の五男で氏政、氏照、氏邦の同母弟。幼名助五郎。相模三崎城主、伊豆韮山城城代。妻は北条綱成の娘高源院。子は北条氏盛、菊千代(早世)、勘十郎(幼名竜千代といわれるが菊千代の兄説あり)、松千代(早世)、北条直定室、白樫三郎兵衛室、東条長頼室である。美濃守を名乗る。
幼少時は今川義元の人質として駿河国の駿府で過ごした。小田原には永禄年間に戻ったとされるが、この頃に関する詳しい史料はない。元亀2年(1571年)の甲相同盟の際には北条氏忠とともに武田家への人質となっている。なお、この駿府人質時代に徳川家康も駿府で人質となっていたため、この頃から二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、家康と住居が隣同士だったとも伝えている。
氏照や氏邦は統治能力と武勇で知られていたが、氏規は秀でた外交手腕で世に聞こえた。上杉謙信や武田勝頼との折衝や、織田信長没後の徳川家康、奥州の伊達氏、蘆名氏との同盟の成立には、その外交手腕が発揮されたと読み取ることができる。徳川家康から北条氏規宛の書状などが多数現存しており、後述の豊臣秀吉が北条氏に上洛を求めた際には、家康からの働きかけは氏規に対するものが多く、家康が氏規を北条氏の窓口役として見ていた事実が伺える。
その一方、永禄12年(1569年)の武田信玄の伊豆侵攻の際には韮山城を守備して武田軍を撃退、この頃から武将としてもその活動を見せている。また相模国三浦郡三崎宝蔵山のあたりに領地を持っていたことが判明しており、地理的要因から三浦水軍に対する担当者であったとされている(『北条五代記』)。
豊臣秀吉が九州征伐を完了すると、氏規は大局を読み秀吉への臣従を主張した。北条家の当主に代わって上洛して秀吉と数度の交渉に当たっている。しかし、最終的に彼の働きは報われず、天正18年(1590年)、小田原攻めが始まると韮山城へ籠もり、3千6百余と言われる兵力で3ヶ月近くの間抗戦したが、最終的には家康の説得を受けて開城、後に氏政・氏直親子に降伏を勧める役割を果たした。
戦後は北条氏直に従って高野山に赴く。のちに秀吉に許され、天正19年(1591年)には河内国舟南郡2千石、文禄3年(1594年)には河内国の河内郡に6千9百8十石をあてがわれ、万石以下ながら狭山城主として一応の礼節を持って報いられている。慶長5年(1600年)、病死。享年56。法名は高源院殿玉誉妙顔大禅尼である。北条氏盛の継承が認められ、その子孫は狭山藩主として、明治維新まで存続。
その他の子弟
- 1587年3月21日に家臣朝比奈泰寄を子・勘十郎の陣代に任じている。
- 1590年1月には竜千代の被官が、本拠の三崎城か小田原城に籠城している。竜千代は羽柴秀次に仕え、秀次改易後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)1月21日父より1ヶ月前に死去。享年21。法名は松竜院殿月照梅翁大禅定門。少なくとも天正18年(1590年)1月までは竜千代衆というべき家臣団がいたとされる。
参考文献
- 黒田基樹『戦国 北条一族』(新人物往来社、2005年) ISBN 440403251X