岐阜城
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岐阜城 (岐阜県) | |
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金華山山頂の岐阜城 金華山山頂の岐阜城 | |
別名 | 稲葉山城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 |
不明・非現存 独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再) |
築城主 | 二階堂行政 |
築城年 | 建仁元年(1201年) |
主な改修者 | 織田信長 |
主な城主 | 斎藤氏、織田氏 |
廃城年 | 慶長5年(1600年) |
遺構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 天守、門 |
位置 | 北緯35度26分2.66秒 東経136度46分55.97秒 / 北緯35.4340722度 東経136.7822139度 / 35.4340722; 136.7822139 |
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岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県 岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。織田信長が居城とする以前は、稲葉山城と呼ばれていたともいわれているが、信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。
歴史・沿革
鎌倉・室町時代
- 建仁元年(1201年)に、二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まり。続いて二階堂行政の女婿の佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟の稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
- 15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。
戦国時代
- 大永5年(1525年)、斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。天文2年(1533年)長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
- 永禄7年(1564年)、斎藤氏の家臣であった、竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。
- 永禄10年(1567年)、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。
- 天正10年(1582年)、織田信忠が、本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。
- 天正11年(1583年)、羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。
- 天正11年(1583年)から天正19年(1591年)の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。
- 慶長5年(1600年)、秀吉によって13万石の城主に封ぜられていた城主織田秀信(幼名・三法師)は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。
- 慶長6年(1601年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだとも言われている。
近現代
- 明治43年(1910年)5月15日に模擬天守が再建、落成。これは長良橋(初代)の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので木造、亜鉛(トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)であった。
- 昭和18年(1943年)2月17日早朝に失火のため焼失。なお建築から34年たち老朽化のため建替えの話も出始めていたという。
- 昭和30年(1955年)6月、再建期成同盟が発足。建設は市民、財界の浄財によるとの原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、約4ヶ月間で1,800万円が集められた。
- 昭和31年(1956年)7月25日、鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成。天守閣の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工した。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われた。
- 昭和48年(1973年)、大河ドラマ「国盗り物語」による観光ブームで、地理的展望がすばらしい観光地となり、同年の年間入場者数は43万7,209人を記録した。
- 昭和50年(1975年)4月、隅櫓(岐阜城資料館)が完成。建設は創業30年を迎えた川島紡績(社長、川島精市)の全額寄付(総額6,000万円)によるもので、彦根城を参考に設計された。
- 平成9年(1997年)、大改修が行われる。
- 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(39番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
構造
山城。難攻不落の名城として知られているが、歴史上6回の落城にあっている。山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであった。
織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、永禄12年(1569年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間なのである。
天主・天守
信長時代の岐阜城の麓には4階建ての御殿があり、天主(てんしゅ)といったという[1] 。宮上茂隆の説[2] によると、京都 天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に移築されていたが、享保13年(1728年)の落雷によって焼失している[3] 。
観光
日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
- 岐阜城資料館入口
関連項目
脚注
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参考文献
- 中日新聞岐阜総局編著 『岐阜城いまむかし』中日新聞本社,昭和57年,P143-170
外部リンク
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