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服部武雄

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服部 武雄(はっとり たけお 天保3年(1832年) - 慶応3年11月18日(1867年 12月13日))。通称は三郎兵衛播州 赤穂藩出身。新選組 諸士調役兼監察、のち御陵衛士(高台寺党)。

大柄の人物で、新選組隊中1、2を争う剣術柔術槍術の相当の達人で隊内でも使い手として名を馳せ、天才剣士の沖田総司よりも強かったとも言われている。


用意周到な彼は、暗殺された伊東甲子太郎の屍骸を引き取りに行く際、全員武装を主張したが受け入れられなかった。藤堂平助らが四方から囲まれて討ち取られ、三木三郎加納鷲雄富山弥兵衛篠原泰之進らが逃げたのに対し、ただ一人武装していた服部は、塀を背にして最期まで孤軍奮闘、獅子奮迅な戦いぶりで新撰組隊士を一人で苦しめたようだ。しかし、刀が折れたところを原田左之助によって討たれたといわれ、その身体には20余りの傷を負い、両手に刀を握り締め大の字になって斃れていたと伝わる。

「就中服部氏の死状は最も物美事【もののみごと】である。....手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。....其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」(事件後の現場を目撃した桑名藩士・小山正武の証言)

その凄まじさは幕末の抗争の中でも1,2を争うものだと伝えられている。

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