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武士道

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武士道(ぶしどう)とは、封建社会の日本における武士階級の倫理及び価値基準の根本をなす体系化された思想一般をさす。形而下も含めた宇宙において己の存在を確立するための「家」を媒介とした社会との契約の一種であるが、封建社会で隷属する立場の女性は、この主体となることはできない。

エリートがオピニオン・リーダーとなった時代の教育者で思想家の新渡戸稲造は、欧米の宗教観と比べて日本人の自己の確立のため一面では社会における実用主義を推奨し、もう一面では人間が持つべき義務とそれを支える誇りとしての「武士道」を著した。文学・思想に大きな足跡を残したキリスト者達(新渡戸、内村鑑三植村正久など)による異文化接合の形として顕われたのが、もう一つの「武士道」である(詳細は武田清子の「人間観の相克」を参照)。

概略

近年述べられる武士道の多くは、平和な江戸時代に官僚的に幕府制度を維持することが目的である。決して、実際の戦闘で役立つ思想や哲学ではないが、高潔な人格を尊ぶ道徳性は、いつの時代にも必要とされるものである。

また、「武士道」の観念は時代により変遷していることも明らかとなってきている。

既に示したように「武士道」が意味するところは大きく2つある。

  1. 歴史的に実在した日本の中世・近世の思想としての「武士道」
  2. 近代以降に日本のアイデンティティの拠り所の一つとして創造された「武士道」

である。

前者の武士道は個人的戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴である。

後者の武士道は「君に、親に、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」という態度を念頭に置いていることが多い。さらにこれに、常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視して、日本特有の「死の美学」を付けくわえることもある。

士道

近世における武士道の観念

武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」といった考え方は当時は主流ではなかった。

江戸時代元和年間(1615-1624)以降になると、儒教朱子学道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになった[要出典 ]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

享保元年頃(1716年)、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「」「」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。

幕末万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。

明治時代以降の武士道の解釈

明治維新後、四民平等布告により武士は事実上、滅び去った。実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。

内村鑑三新渡戸稲造キリスト者であり、教育者であり思想家であった。新渡戸や内村はキリスト教徒の多いアメリカの現実、拝金主義人種差別に衝撃をうけ、同時に「絶対」の存在を持つ人間たちの倫理観の高さに感銘を受けた。新渡戸は教育関係者との会談において日本における宗教的教育の喪失に突き当たった結果、「武士道」を著したとされる。

無論、それ以前より彼らは日本文化における長所と短所について突き詰めた観察をしているし、それが戦後デモクラシーの大きな基盤となった点は間違いない。但、武田清子が主張するように、新渡戸は教育者としての寛容さで日本の文化と異文化の比較、検討をしている点は内村鑑三や植村正久の厳しさのそれと比べると、甘さが残る。

新渡戸の著した『武士道』(Bushido: The Soul of Japan)は明治33年(1900年)に英語版で刊行されて広く海外で読まれた後、逆輸入される形で日本語版が出版され「武士道」ブームを起こした。この本の中で新渡戸は武士道と騎士道を比較し、武士道が日本人の倫理思想の核になっていると主張したが、武田の主張のようにこれは「新渡戸稲造の武士道」である。

新渡戸の『武士道』はセオドア・ルーズベルトジョン・F・ケネディ大統領など米国の政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン・パウエルなど、多くの海外の読者を得た。新渡戸の『武士道』は山本常朝の「葉隠」とともに、海外における日本ののイメージを決定づけた。新渡戸の著作の影響もあり、en:Bushidoは、世界でそのまま通じる言葉となっている。

参考書籍

関連項目

外部リンク

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