KENTA (プロレスラー)
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
これはこのページの過去の版です。58.85.228.199 (会話) による 2008年3月18日 (火) 15:55 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→ROH参戦・対ヘビー級路線・石森太二とのタッグ結成 )であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。
KENTA | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
KENTA 小林健太 ハリマオ |
本名 | 小林健太 |
ニックネーム | イケメンレスラー |
身長 | 172cm |
体重 | 81kg |
誕生日 | (1981年03月12日) 1981年 3月12日(43歳) |
出身地 | 埼玉県 草加市 |
所属 | プロレスリング・ノア |
スポーツ歴 | 野球 |
トレーナー |
小橋建太 高山善廣 |
デビュー | 2000年 5月24日 |
テンプレートを表示 |
KENTA(けんた、本名:小林健太、1981年 3月12日 - )は、プロレスリング・ノア所属のプロレスラー。埼玉県 草加市出身。身長172cm、体重81kg。血液型O型。本名が小橋建太と一文字違いの為「コケンタ」と呼ばれている。
人柄
相手がヘビー・格上・師匠であろうが物怖じせず、そのまま突っ込んでいくストレートさと、相手を小馬鹿にした動作や「すかす」クレバーさを備えたタイプのレスラーである。ルックスが良いためにプロレスとは関係のない雑誌にも数多く登場し、丸藤正道と共に女性ファン新規開拓の牽引役となっていた。 童顔である為か初期の頃は女性ファンに「ケンタきゅん」と呼ばれていたが、最近の急成長を前にそう言われることは殆どなくなってきている。ムシキング・テリー戦以降から、子供達の人気も上昇している。 2006年の5月に入籍を発表。
- 丸藤とタッグを組み、ジュニアタッグ王者の長期政権を築いていたが、KENTAは「丸藤さんとは仲が良くない」「タッグを組んでいるのは、あくまで上を獲る為」と平気で言っている。柴田勝頼のことは「ソウルメイト」と言い、趣味も同じ事から公私ともに気の合う仲であることを公言している。
- 周りからイケメンイケメンと騒がれ、自分もそれを逆手にとって「ブサイクへの膝蹴り」という技も使用しているが、本人曰く「自分を本気で『イケメン』だなんて思っている人は居ませんよ」。
- 「第二回ディファカップ」優勝後、リング上で優勝賞金100万円を受け取ると、ZERO1-MAXのオッキー沖田を呼び出し、「オッキー、これ、おまえが責任持って星川選手に渡しな」と、くも膜下出血のリハビリを続けている星川尚浩へ渡すよう告げる。沖田はリング上で号泣した。
- オッキー沖田を嫌っていた。理由は、オッキーがNOAH社長である三沢光晴の事を「緑」と呼び捨てにしているのを目撃したためで、「自分には例える色もないくせに」と憤慨していた。
- 師匠である小橋をめぐる関係で、秋山準とはそりが合わないとされている。普段の興行ではタッグを組むことはまず無い上に、対戦カードが組まれるとKENTAは秋山に対し普段以上の猛攻を浴びせ、秋山も何時も以上の冷徹さでこれに応戦する。確執が決定的になったのは、2004年に行われたKENTA蹴撃七番勝負の秋山戦である。雑誌等の取材で秋山のことに話が及ぶと、KENTAは敢えて「秋山氏」「白パン」(秋山のリングコスチュームが白のトランクスであることから)と呼ぶ。
- 第2回SEMのボーナスマッチの後、菊タローが「これからは菊KENタッグでタッグベルトを狙います。森嶋、ヨネ、待っていろ!」と言われ、菊タローをつまみ出して「組むことはない」と言っているが、このネタも楽しんでいるのではないのかと言われている(KENTAはお笑い好きである)。
- 北海道が鬼門。GHCジュニア、ジュニアタッグ両方のタイトルを北海道で手放している。
- 大変な好角家でもある。大相撲の話になると冗舌になり、力皇猛と仲が良いこともあって二人で両国国技館にて観戦したり、力皇の弟分である幕内力士などと食事をすることもある。また毎場所の場所前には力皇から番付表を貰い、自分の部屋に飾っていると言う。
経歴・戦歴
入門前
- 小学校高学年の頃、ファミコンのプロレスゲームで自分と一文字違いの名前のプロレスラー・小橋健太(現・小橋建太)の存在を知り、プロレスに興味を持つ。以降TV・雑誌を通じて小橋の、ひいてはプロレスファンとして成長する。
- 高校野球の強豪・修徳高校時代には野球に打ち込みつつ、小橋がアマチュア時代に体を作るために通っていた遠藤光男氏(日本アームレスリング連盟会長)の主催するエンドウズジムの存在を知り、入会。卒業にあたり、遠藤氏にプロレスラー志望の意を伝えると、小橋と旧知の遠藤氏が小橋宛に履歴書を送り、「一般公募オーディションに参加するように」との返事を貰う。オーディション参加には、一面識もないにも関わらず小橋の推薦が付いていて本人も驚いた、というエピソードがある。
デビュー
- 1999年、全日本プロレスが初めて行った一般公募オーディションに参加し、合格する。練習初日、余りの練習の厳しさに合格者が次々と倒れこんでいく中、テレビのインタビュアーに「後悔していませんか?」と訊ねられたところ、「いえ、していません」ときっぱり答えていた。2000年 3月11日、後楽園ホールでのバトルロイヤルでプレ・デビュー。合格者7名の中で唯一5月24日青森県総合運動公園体育館にて、丸藤正道を相手に本名の「小林健太」でデビューする。その直後に全日本が分裂しそのまま三沢が設立した新団体プロレスリング・ノアに移籍する。この頃、小橋がリーダーのチーム「バーニング」が崩壊、初代付き人の金丸義信も小橋の元を離れ、KENTAが2代目付き人となり、3代目の潮﨑豪に引き継ぐまでの約4年間行動を共にすることになる。
新人時代
- ジュニア戦士らしく飛び技主体のスタイルで戦っていたが、その路線には天才と名高い丸藤正道が居たためいま一つ印象が薄く、当時練習生であった鈴木鼓太郎が自分が出来ない跳び技を軽々やってみせていたことから自分のスタイルに迷いが出てくる。師匠である小橋にオレンジ色を譲り受けるも度重なる怪我で戦列を離れた。自分はジュニア戦士なのだから飛び技を使えなければならないと思い意図的に飛び技を出していたためである。小橋の師事を受けトレーニングに励み、スタイルもパワーを強調したものになっていった。2002年 5月27日、第5代ジュニアヘビー級トーナメント決勝で金丸義信に肉薄し、それ以降、積み重ねてきたキックボクシングを取り入れたキック中心のスタイルを確立していく。
イケメンタッグ
- トップに近づく為、丸藤正道とタッグを組みはじめる。性格はバラバラで特に仲良くもなかったが、タッグの相性は抜群であり、2002年 7月16日、外敵タッグの獣神サンダー・ライガー・村濱武洋組を退け初代GHCジュニアタッグ王者を獲得する。丸藤の魅せる動きと受け、KENTAのハードヒットという両極端だが非常に分かり易いスタイル、そしてルックスの良さから「イケメンタッグ」と称されるようになり、多くの女性ファンを呼び込むことに成功した。ただ見た目が良いだけではなく、試合をすれば必ず名勝負を演じ納得のフィニッシュで勝利を掴むことから、同時期のGHCヘビー級王者の小橋建太と並んで「名勝負製造機」「ジュニア版絶対王者」と賞され、ノアにおけるジュニアの台頭を生んだ。2004年、KENTAは「蹴撃七番勝負」を行なう。初戦のフベントゥ・ゲレーラ以外は全敗という結果に終わる。2戦目の相手小川良成の持つGHCタッグに挑戦を表明していたが、敗れてしまった為に小川から鈴木鼓太郎とのタッグでGHCジュニア・タッグ挑戦が決定するもこれを返り討ちにする。この実績から三沢光晴・小川良成組が持つGHCタッグへの挑戦が2004年 4月25日に決定した(結果は敗北)。
- 5月7日・8日に行われた第二回ディファカップに丸藤とのタッグで出場。決勝戦でタッグ歴6年を誇る日高郁人・藤田ミノル組と35分24秒にも及ぶ激闘を繰り広げ、最後にはブサイクへの膝蹴りで藤田を撃破し見事優勝を果たした。6月5日には金丸義信・杉浦貴組に敗れ、約2年に渡り9度の防衛に成功したGHCジュニアタッグ王座から陥落。
GHC Jrヘビー級王者時代
- 2005年7月18日東京ドームにて金丸義信が保有するGHC Jrヘビー級王座に挑戦し奪取に成功する。その後海外での防衛戦を経て、2006年1月、先輩である丸藤正道を相手に防衛戦を行い、同年のベストバウト候補に挙がるほどの死闘を繰り広げ、ついに丸藤越えを果たした。この防衛戦の高い評判により丸藤正道と共に対ヘビー級路線に駆り出されるようになる。
- 直後の3月には師である小橋建太とこれまた激闘を繰り広げるも、リストクラッチ式バーニングハンマーにより敗れた。
- その後も防衛戦を続けるも同年6月杉浦貴に敗北し1年近く在位していた王座から陥落する。
ROH参戦・対ヘビー級路線
- GHC Jrヘビー級王座からは陥落したものの、かつてタッグを組んでいた丸藤正道が2006年9月に秋山準を破りジュニアでありながらGHCヘビー級王座を戴冠する。同年1月にGHC Jrヘビー級王座の防衛戦で丸藤に勝利していたため、初防衛戦の相手として指名され初のジュニアヘビー級同士によるGHCヘビー級選手権試合が行われた。1月の試合を超え、プロレス大賞にて2006年のベストバウトに選ばれる程の死闘を繰り広げたものの敗北する。
- また2005年末よりアメリカのインディ団体「ROH」に定期的に遠征するようになり、当時ROH世界王者だったブライアン・ダニエルソンとライバル関係になる。現地にてROH世界王座に挑戦して敗北することもあったが、2006年12月にノアマット初上陸を果たしたダニエルソンとリマッチを行い初勝利を収めている。
- 06年から断続的に続いていた対ヘビー級路線は07年に入り森嶋猛とのシングルという形に結実する。2006年12月にSEMで引き分けたことに続き、2007年3月には日本武道館のメインイベントでROH世界王座戦(2007年1月に森嶋がROH世界王者になっていた)という形で森嶋に挑むも敗北する。その後、下記に示す石森太二とのタッグ結成により再びジュニアヘビー級戦線に戻るかと思われたが、対ヘビー級の能力も高く評価されており、アメリカで三沢光晴を相手にGHCヘビー級選手権試合を行ったりする等、時々ヘビー級戦線に参戦するような形になっている。
石森太二とのタッグ結成
- 07年初夏頃から石森太二とタッグを組むようになり、Jrヘビー級戦線の活発化のためノア初のジュニアタッグリーグ戦を提唱し実現する。Jrヘビー級タッグ王者の鈴木鼓太郎&リッキー・マルビンの他、ROHの強豪タッグチーム:ブリスコ・ブラザーズや、丸藤正道がDDTの飯伏幸太と組んで参戦したことにより大成功を収めた上、王者チームを差し置いて優勝をも果たす。その後8月にGHC Jrヘビー級タッグ王座に挑戦するも敗北。その後しばらく目立った活動は無かったが、08年3月にDRAGON GATEに流出したGHC Jrヘビー級タッグ王座への挑戦が決定した。
主な得意技
ジュニアとしては飛び技、特にダイブ系が極めて少ないのは、周りのジュニア戦士が軽々と行っていたものを「怖くて出来なかった」ためである。現在では様々な経験を経て、キックを主体としたスタイルを確立し、師匠小橋建太と同様、雪崩式・垂直落下式の危険技も併せ持つ。
- go 2 sleep
- 自分の左肩に顔がくるようにうつぶせ状態で抱え上げ(ファイヤーマンズキャリーの体勢)、相手を目の前に落とすと同時に胸元や首・顎あたりにカウンターで左膝を叩き込む。「ブサイクへの膝蹴り」に続くフィニッシュムーブ。潮崎豪の顎を骨折させたこともある危険な技である。この名前を意訳すると「おやすみなさい」になり、「これでフィニッシュ」することを意味する。
- ブサイクへの膝蹴り
- ロープに走り戻ってきた所で、右膝で相手の首筋・顎あたりを蹴り飛ばす独特の飛び膝蹴り。ボディに左掌底→右頬に左掌底→左頬に右掌底→右頬にローリング裏拳→右側頭部に左ハイキックというコンビネーション(ここまでの流れを「ブサイクへの顔面潰し」とも言う)から繋ぐことが多いが、他にも様々なバリエーションがある。
- 形は同じでも相手によって名前に数多くのバリエーションがあり、対戦相手によって様々である。
- ミドルキック
- 時に高山善廣と合同で行うこともあるキックボクシング仕込の切れ味鋭いキック。主力武器。
- ファルコンアロー
- ブレーンバスターの体勢で持ち上げた後、相手の頭が自分の方にくるようあお向けに回転させながら自分は前方開脚、尻餅状態に座りながら股の間に相手の後頭部から背中を投げ落とす。FMWのハヤブサが開発したことでこの名がついた。現在のスタイルが確立される前から大一番で使用されることが多い技である。
- 2005年以降、ビッグマッチでは雪崩式に使用することもあり、投げ技の中心となっている。雪崩式はドノバン・モーガンのコークスクリュー・ネックブリーカーと同型。2006年10月29日の丸藤戦では、断崖式で繰り出した。
- フィッシャーマンズ・バスター
- 相手を前かがみにさせ、左腕で相手の首を下から巻きつけロックし、左腿を右手で抱えて持ち上げる。この状態で担ぎ上げ、垂直落下式に落とす技。ファルコンアロー共々キック主体となる前から度々使用されている。2006年1月22日の丸藤戦では、雪崩式で繰り出している。
- タイガー・スープレックス
- 詳細はリンク先参照。KENTAのものは三沢式('84)でクラッチしている。2004年頃から使用され始め、中盤から試合を決めに行こうとする繋ぎの投げとしてビッグマッチで使用されている。丸藤とのGHCヘビー級王座戦では雪崩式(下田美馬のデスレイクドライブ)で出した。
- スワンダイブ式ミサイルキック
- KENTAにとっては珍しい飛び技。ファルコンアロー同様、長く愛用している技の一つである。2006年1月22日の丸藤戦の解説(高山善廣)によると、受身の取り方を背中でとるものから、捻りを加え前でとるものに変更したとのこと。
- スワンダイブ式ラリアット
- 柴田との合体技「タッチ・ザ・スカイ」の披露後に使われだした技。相手の位置は違うが(タッチ・ザ・スカイは相手が柴田の肩車に乗せられている)、一人タッチ・ザ・スカイとも言える。
- ローリングラリアット
- 試合終盤にて繰り出される回転してのラリアット。主にビッグマッチにて使われ、返されるとブサイクへのコンビネーションに繋げていく。
- ジャンピングビッグブート
- 試合中盤に使うが、走ってからジャンプする点でブサイクへの膝蹴りと酷似しているため間違われることが多い。ちなみにこちらは膝ではなく靴底を相手の顔面にぶつけていく。
- ダイビングニードロップ
- 相手をセカンドロープに引っかけた所へ膝を落とす形で使うことが多い。
- ターンバックル・パワーボム
- パワーボムで担ぎ上げた相手をコーナーのターンバックルに後頭部から叩きつける技。元々は師匠小橋の技であったが、ビッグマッチで何度も使っていくことで自分の技へとしていった。
師匠「小橋建太」
プロレス界入りの経緯の通り、KENTAは小橋建太に多大なる影響を受けている。
- 練習生時代には小橋から「俺と一文字違いということで周りから色々と言われるかもしれないけど、お前はお前で小林健太を確立していけばいい」とアドバイスを受けた。
- KENTAという改名の理由は「小橋建太に似ているから」ではなく、NOAH旗揚げ前に小橋が膝の手術で入院していた頃、お見舞いに来ていたTHE YELLOW MONKEYの菊地英昭から「KENTAという名前はどうだ?」という話が出ていたという。その後小林名義で怪我の絶えなかった事から、小橋がその「KENTA」という名前を提案、吹っ切る意味で変えたという。
- NOAH時代、小橋が膝の怪我悪化で長期離脱を余儀なくされた頃、小橋はバーニング解散を宣言する。その旨をKENTA(当時小林)に告げ、付け人も辞めて別のチームにでも行けと言うと「絶対嫌です」と固辞し続け、結局一人だけバーニングに残ることになった。
タイトル歴
- GHCジュニアヘビー級
- 第10代
- GHCジュニアタッグ
- 初代、パートナーは丸藤正道
- リーグ戦・トーナメント
-
- 第二回ディファカップ優勝(2005年、パートナー:丸藤正道)
- 日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦優勝(2007年、パートナー:石森太二)
入場テーマ曲
- For One's Life/BRAHMAN (- 2002年)
- The Champ Is Here (remix) 〜Art And Life Chi-Roc (2002年 - 2006年)
- What You Know (Instrumental) / T.I. (2007年1月8日 - )