召公奭
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
召公奭 | |
---|---|
生年月日 | 不詳 |
没年月日 | 前1053年 (英語版)[1] |
称号 | 召康公 |
親族 |
燕侯克(長男) 燕侯旨(子) |
テンプレートを表示 |
召公奭 | |
---|---|
燕・召 | |
初代公 | |
王朝 | 燕・召 |
姓・諱 | 姞奭 |
諡号 | 康公 |
生年 | 不明 |
没年 | 前1053年 (英語版)[1] |
父 | 不明 |
子 | 燕侯克・燕侯旨 |
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
召公奭(しょうこうせき)は、西周の政治家。姓は姫または姞[注釈 1] 、諱は奭。太公望や周公旦と並ぶ、周建国の功臣の一人である。周初で最も長く活躍し、文王・武王・成王・康王の四代に仕えた。
略伝
[編集 ]召の地(現在の陝西省 宝鶏市 岐山県の南西)を食邑としたことから召公、周召公、召康公または召伯と呼ばれる。武王の殷打倒を補佐し、その功績により燕(現在の河北省北部)に封じられ、都城を薊(現在の北京市 房山区)と定めた。燕には長男の克を赴かせ、 自らは鎬京(現在の陝西省西安市)に留まった。
成王の代に三公に列し、太保となった。周公旦と殷の旧域を陝塬(現在の河南省 三門峡市 陝州区)で二分[注釈 2] して、陝東を周公旦の、陝西を召公奭の管理とした。
慣用表現
[編集 ]- 甘棠の愛
- 立派な為政者に対し深い愛情と敬意を捧げること。召公は国内をくまなく歩いて甘棠の下で人々の訴えを聴き、争いごとを裁いた。人々は召公の仁徳と善政を思い、その甘棠を惜しんで木を切らなかったという故事から。
登場作品
[編集 ]- 宮城谷昌光『侠骨記』講談社、1991年。ISBN 4062052008。
- 「甘棠の人」は召公奭を題材にしている。
参考文献
[編集 ]- 『史記』燕世家
- 『東洋歴史大事典』
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 『史記』燕世家では周王家と同姓の姫姓としているが、殷墟から発掘された『卜辞』によれば、姓は姞 (中国語版)である。
- ^ ただし、特定の地名を指すのではなく、国土を意味していたとする解釈もある(万縄楠『魏晋南北朝文化史』(東方出版中心、2007年、P15.)の説)。