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召公奭

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召公奭
生年月日 不詳
没年月日 前1053年 (英語版)[1]
称号 召康公
親族 燕侯克(長男)
燕侯旨(子)
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召公奭
初代
王朝
姓・諱 姞奭
諡号 康公
生年 不明
没年 前1053年 (英語版)[1]
不明
燕侯克燕侯旨
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

召公奭(しょうこうせき)は、西周の政治家。姓はまたは[注釈 1] 、諱は太公望周公旦と並ぶ、周建国の功臣の一人である。周初で最も長く活躍し、文王武王成王康王の四代に仕えた。

略伝

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の地(現在の陝西省 宝鶏市 岐山県の南西)を食邑としたことから召公周召公召康公または召伯と呼ばれる。武王の打倒を補佐し、その功績により(現在の河北省北部)に封じられ、都城を薊(現在の北京市 房山区)と定めた。燕には長男のを赴かせ、 自らは鎬京(現在の陝西省西安市)に留まった。

成王の代に三公に列し、太保となった。周公旦と殷の旧域を陝塬(現在の河南省 三門峡市 陝州区)で二分[注釈 2] して、陝東を周公旦の、陝西を召公奭の管理とした。

慣用表現

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  • 甘棠の愛
    立派な為政者に対し深い愛情と敬意を捧げること。召公は国内をくまなく歩いて甘棠の下で人々の訴えを聴き、争いごとを裁いた。人々は召公の仁徳と善政を思い、その甘棠を惜しんで木を切らなかったという故事から。

登場作品

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参考文献

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  • 『史記』燕世家
  • 『東洋歴史大事典』

脚注

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注釈

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  1. ^ 史記』燕世家では周王家と同姓の姫姓としているが、殷墟から発掘された『卜辞』によれば、姓は (中国語版)である。
  2. ^ ただし、特定の地名を指すのではなく、国土を意味していたとする解釈もある(万縄楠『魏晋南北朝文化史』(東方出版中心、2007年、P15.)の説)。

出典

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  1. ^ a b 『東洋歴史大事典』による。没年を康王26年とする説や生没年を前1046年 (英語版)-前995年とする説もある。
召公奭
の君主

不明 - [[前1053年 (英語版)]]

先代
- の君主
(名祖) 次代
初代:燕侯克
先代
- の君主
初代
紀元前1046年 - 前1053年 (英語版) 次代
数代不明
幽伯

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