コンテンツにスキップ
Wikipedia

李密 (隋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Marlanca08 (会話 | 投稿記録) による 2024年9月24日 (火) 07:44 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (脚注の修正・挿入、関連人物追記)であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

Marlanca08 (会話 | 投稿記録)による2024年9月24日 (火) 07:44時点の版 (脚注の修正・挿入、関連人物追記)
李密(説唐演義全伝)

李 密(り みつ、582年(開皇2年) - 619年1月20日(武徳元年12月30日))は、中国隋末に割拠した群雄の一人。玄邃[1] 、または法主[2] 本貫遼東郡 襄平県(現在の遼寧省 遼陽市)[3] [注 1]

概要

門閥貴族の出身。若いころ宮廷の護衛官となったが程なくして辞任した。613年楊玄感の乱に参加し、反乱が失敗に終わると数年の逃亡を経て翟譲による群盗集団に合流した。617年に洛口倉城を拠点として政権を樹立し、魏公となった。反隋を掲げ、他の群盗や郡県を糾合し、河南から山東江蘇までを勢力下に収めた。隋軍を幾度も破って苦しめたことで隋臣による煬帝殺害の誘因となった[4] 。隋の恭帝楊侗に帰順したが、宇文化及との戦いで疲弊し、王世充に敗れた際に配下の裏切りにあって拠点を失った。李淵に帰順したが、間もなく亡命を図って殺された。

生涯

出身

武川鎮軍閥中の名家の一つである遼東李氏を出自とする。曾祖父は西魏北周司徒柱国・魏国公の李弼。祖父は北周の邢国公李曜。父は北周・隋の柱国・蒲山郡公李寛 (中国語版)[5] 。父の代で長安に移った[6]

李密(橘守国『絵本故事談』より)

開皇年間に父の蒲山公の爵位を受け継ぐと、親類や旧友を援助し、客人や賢者を礼遇した。楊玄感とは刎頸の友となる。のちに学問に没頭して暗誦するほど兵書を好み、国子助教の包愷 (中国語版)に師事して『史記』『漢書』を学んだ。大業の初めに親衞大都督[注 2] となったが気に入らず、病と称して辞職した[7]

楊玄感の乱

大業9年(613年)、隋の第3次高句麗遠征で兵站を任されていた楊玄感が謀叛を企て、李密は楊玄感に招かれて黎陽に赴き謀首(参謀)となった。楊玄感から計略を問われ、上・中・下の3つの選択肢を示した。

  • 薊県(涿郡。現在の北京市)を占領し、隋軍の退路を断つ。兵糧を枯渇させ、自ら降伏してくるのを待ち、戦わずにして虜にする(上策)。
  • 天府の国である関中の掌握。煬帝は要害を失い、楊玄感は険阻に拠って対抗することできる(中策)。
  • 洛陽の攻略。唐禕が固守するため攻め落とすまで歳月がかかり、とりわけ勝敗の予測が難しい(下策)。

楊玄感は、朝臣の住居が多い洛陽を落として動揺を誘い、かつ威信を示す必要があるとして洛陽攻めを敢行した[7]

反乱軍は緒戦で勝利を重ねたが、楊玄感は韋福嗣 (中国語版)を捕らえて新たに腹心とし、李密は軍事で専任されなくなった。韋福嗣は非協力的であり、同志ではないため殺して結束を固めるように進言したが反対された。また、楊玄感から帝号を称することについて相談を受けた際は、敵の援軍が迫っている今は、帝位を急ぐよりも関中を平定することが急務であると指摘し、楊玄感も同意した[7]

宇文述来護児ら隋の援軍が迫ると楊玄感は李密へ謀った。隴右で精鋭を率いている隋臣の元弘嗣 (中国語版)が楊玄感に呼応したと流言して敵を欺けば、容易に関中に入ることができると説いた。楊玄感はこれを採用して関中へ向かったが、途中で弘農宮を攻め始め、速やかに進軍するようにとの李密の諫言は聞き入れられなかった。3日で攻略を諦めて進軍を再開したが、閿郷県で隋軍に追いつかれて楊玄感は敗北した[7]

逃避行

李密は逃げて馮翊郡に身を潜めたが、密告されて捕われ、煬帝がいる高陽県へ護送となった。同じく捕われた仲間に脱走の相談を持ちかけて同意を得ると、護送役人に金をちらつかせ、自分らが処刑された後の埋葬を頼み、残った金は彼らにゆずることを約束した。警備が緩くなり、毎晩飲み騒ぎ喧嘩したが役人は気にしなかった。邯鄲県に着くと同志6人とともに塀を破って逃げ出した[7]

王仲伯とともに平原の頭目郝孝德のもとに身を寄せたが冷遇され、飢饉に見舞われて樹皮を削って飢えをしのいだ。王仲伯と別れて淮陽郡の農村に身を落ち着け、劉智遠と名を偽り、生徒を集めて学問を教え始める。失意のうちに数ヶ月が経ち、五言詩[注 3] [注 4] を綴ると涙を流した。怪しまれて通報されたため逃亡し、妹婿で雍丘県令の丘君明のもとに逃げ込んだ[7] 。丘君明の甥に密告されて捕縛の勅令が下り、李密は逃走したが丘君明は連座で殺された[7]

群盗の下で

逃亡の末、東郡で数万人を集めていた翟譲の群盗集団に加わった。楊玄感の配下であったことを知る者がおり、李密は命の危険を感じて王伯当を頼り、策を用いて翟譲に謁見した。翟譲は李密を派遣して他の弱小群盗を説得させると次々と降ってきたため、李密を敬い始め、ともに事を計るようになった[7]

翟譲集団は兵は多いが食糧が少なく、人も馬も疲弊していた。滎陽を奪って兵糧を確保し、兵馬を回復させることを提案すると翟譲も賛成し、金堤関を破って滎陽諸県の多くを降した[7]

大業12年(616年)10月、隋将の張須陀を打ち破り、斬った(大海寺の戦い (中国語版))。この勝利により、翟譲は李密の護衛部隊を設けて統率させた[7]

洛口倉[注 5] を制圧し、飢饉で困窮する民衆を救済して人を集めることを提案し、翟譲の同意を得た。大業13年(617年)春、洛口倉を落として民衆に開放すると、老人や子連れの者らが道に絶えることなく大勢が行き着いた(洛口倉の戦い (中国語版)[7] 洛陽の越王楊侗は劉長恭に李密を討伐させたが、李密は一戦してこれを破った(石子河の戦い (中国語版))[7]

魏政権樹立

翟譲に推戴されて頭首となった。洛口の周囲40里に城(洛口倉城)を築いて居城とする。房彦藻汝南郡を説いて降すと洛陽は震撼したという。2月、魏公に即位して元号を元年とし[注 6] 、配下にそれぞれ爵位・官職を与えた[7] 。詳細は#配下を参照。

同年4月、長白山の首領孟讓、鞏県の柴孝和、虎牢関裴仁基が帰順し、裴仁基と孟讓に洛陽の北に位置する回洛倉を攻め落とさせた。彼らが洛陽の軍に敗走すると、李密は3万の兵を率いて洛陽へ進軍し、隋将の段達・高毗・劉長恭ら率いる7万の軍を洛陽故城 (中国語版)で打ち破った[7]

隋末の反乱を示す地図。翟譲・李密政権の勢力範囲は薄緑色の斜線で示されている。

柴孝和は、天然の要害であり王業の地である関中を落としたあとに洛陽を攻略する策を提案した。李密も同じ構想を持っていたが、煬帝の兵力が依然として強いこと、洛陽を制圧しないかぎり麾下の大半を占める山東出身者は従わないであろうこと、群盗の出身である諸将を留めれば各自争い始めるといった懸念があり、実行に移せずにいた。柴孝和は得心して少数で偵察に出た。陝県で1万あまりの賊徒を集めたが、李密が隋軍との連戦で負傷し、洛口倉城まで退くと賊徒はみな逃げ散った[7]

同年10月、煬帝は王世充を派遣して李密を攻撃させた。李密は防戦するも形勢不利となり、柴孝和が溺死した。李密はひどく悲しんだという(黒石の戦い (中国語版))。洛西に軍営を築いた王世充とは100日あまりにわたって対峙した。また、武陽郡丞の元寶藏や郝孝德・李文相ら各地の群賊が帰順し、ともに黎陽倉を攻め落とした[7]

翟讓は、配下の王儒信から大塚宰(宰相)となって李密の権力を奪うことを勧められ、兄の翟寛からは天子の座を狙うように促された。李密はそれらを知ると禍根を断つ一計を案じる。同年11月、王世充を敗走させた翌日、翟譲は数百人を伴い李密のもとを訪れて酒宴を要求した。李密は翟譲とその配下を別々の席に案内すると、翟譲に良弓を渡して射てみるように促した。翟譲が弓を引き絞った時、李密の命を受けた蔡建が翟譲を背後から斬殺し、翟寬・王儒信をも殺害した。重傷を負った徐世勣を助け、単雄信らをなぐさめ愉した。翟譲の兵卒は徐世勣・単雄信・王伯当に分けて統率させた[7]

同年12月、王世充が洛口倉城を夜襲してきたため撃退し、隋将の費青奴を斬った[7] [注 7]

大業14年(618年)1月、王世充が鞏県の北から洛水を渡って侵攻し、鞏県の城下に迫った。李密は精鋭を率いて反撃し、隋軍を退却させた。隋軍は数万人の溺死者を出し、楊威・王辯・劉長恭ら多くの隋将が陣没した。王世充は逃れたが、この夜の雨雪のため兵士のほとんどが死亡した(洛南の戦い (中国語版))[7]

金鏞城 (中国語版)を修繕・建造して居城とした。この時、李密は30万以上の人々を擁していたとされる。洛陽の上春門を攻めて隋将韋津 (中国語版)を破り、生け捕った[7]

東の海岱[注 8] から南の江淮[注 9] までの郡県はみな李密に使者を送った。竇建徳朱粲ら群雄から帝位につくよう勧められ、李密の配下もみな賛同したが、洛陽を落とさない限りこの話はしないと拒んだ。李淵にも合従を求めると、李淵は関中を平定するまでは李密と敵対を避け、従順を装う書を送った[6] 。同年4月に洛陽を包囲した李淵の軍と競い合ったが、その時は互いに兵を退いた[7]

隋に帰順・宇文化及との戦い

同年3月、煬帝が江都宇文化及に殺害された。宇文化及は洛陽・長安へ帰還するため、衆を引き連れ、城を降しつつ北上した。洛陽の恭帝侗は恐れて李密を招撫し、李密は恭帝侗に帰順した[8] [注 10]

武徳元年(618年)6月、宇文化及が10万あまりの兵を率いて黎陽に向かったため、李密は2万の歩騎で拒んだ。恭帝侗の詔により、李密は太尉尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏国公および節度を授けられ、宇文化及を討伐したのち参内することとなった[7]

宇文化及の洛陽・長安への帰路を断った上で、徐世勣とともに黎陽を守った。童山の麓で対戦した際に流れ矢で負傷し、汲県で療養している間に、宇文化及は汲郡を寇掠して魏県へ去った(黎陽の戦い(618年) (中国語版))[7]

煬帝の殺害に関わった于弘達を恭帝侗に献上し、入朝を促されて洛陽に向かっていたが、李密の入朝を主導していた元文都盧楚らが反李密派の王世充に殺されたことを知り、金墉城へ帰った[7]

敗戦

魏政権は衣類が不足し、洛陽政権は食糧が少なかった。邴元真らに説得されて洛陽との交易を許可したが、洛陽からの投降者が激減したため差し止めた。その上、財物が備蓄されている府庫を手に入れることができなかったため、兵は数戦しても褒美をもらえず、一方では新参の者が厚く慰撫されるのをみて不満を募らせていった。また、邴元真が謀反を企てているとの密告があったにも関わらず、洛口倉城の守備を任せていた[7]

同年9月、王世充に北邙山 (中国語版)で敗れ、1万あまりの兵を連れて洛口倉城へ退却した(邙山の戦い(618年) (中国語版))。王世充が偃師城を包囲すると、鄭頲の兵士が叛いて城を明け渡した。李密は洛口倉城に入る前に邴元真の内通を知り、途中で王世充を撃退しようと待ち伏せたが失敗し、逃れて虎牢関に入った[6] 。王世充は偃師で捕らえた李密の臣下の家族を使って降伏を呼びかけており、洛口倉城に至ると邴元真らは城ごと降伏した[9]

李密は徐世勣を疑って彼が守る黎陽には向かわず、王伯当が守る河陽に入った。王伯当に対し「我が軍は負けた。諸君には長いあいだ苦労をかけた」と詫び、自害して謝罪しようとした。王伯当は李密を抱き留めて号泣し、周りの者もみな泣いた。の李淵に身を寄せる提案をすると、李密と李淵には親交があることなどをあげて一同は賛成した。王伯当には自分と同行しないことを勧めたが、王伯当は李密と生死を共にすることを誓った[6]

唐に臣従・最期

同年10月、2万人を従えて唐の李淵に帰服した。光禄卿となり、邢国公に封ぜられた。まもなく李淵は、李密の旧臣が王世充に服従していないことを知り、李密を黎陽へ派遣して旧臣を招集させ、王世充を攻略しようと計った[6]

同年12月、王伯当らを伴って長安を出立したが、桃林県まで進むと李淵から再び戻るように命ぜられた。李密はおそれ、王伯当らが止めるのも聞かずに勅命に逆らい逃亡を図った。配下を妻妾の姿に変装させて県舎に侵入し城を占拠、畜産を奪って脱出した。南山を通って旧臣の張善相 (中国語版)が守る襄城へ向かい[注 11] 、張善相に呼応するよう使者を出した。陸渾県の南70里まで来た時、李密を追跡していた唐の熊州副将盛彦師 (中国語版)による伏兵の奇襲を受けて斬殺された。享年37。同行していた王伯当も死亡し、2人の首は長安に送られた[6]

死後

徐世勣は李密の反状を知らされると、遺体を引き取り埋葬することを願い出た。李淵から遺体が返されると喪を発し、君臣の礼をもって黎陽山[注 12] の南に埋葬した。旧友たちは血を吐くほど悲しんだという[6]

旧臣の杜才幹は、李密に背き王世充に降った邴元真を恨んで殺害し、李密の墓にその首を祭った[6]

墓誌銘

1969年の冬、河南省濬県城関郷羅荘村(現在の河南省 鶴壁市 浚県羅荘村)西の衛河浚渫した際に河床内より墓誌銘(「唐上柱國邢國公李君之墓銘」[10] )が出土した。『文苑英華』に収められている魏徴撰「唐故邢國公李密墓誌銘[11] 」の墓誌石とみられる。墓誌石と『文苑英華』所収の墓誌銘には差異がみられ、たとえば李密の葬儀を執り行った者で名前の記載があるのは、墓誌石では徐世勣・柳徳義・薛宝・杜才幹の4名だが、『文苑英華』所収の墓誌銘では徐世勣のみである[12]

関連人物

妻子

  • 王秀才の娘 李密が楊玄感の乱の後に王秀才に匿われた際に妻とした[13] 。。
  • 独孤氏 李淵の従妹で、李密が唐に臣従した際に妻とした[14]
  • 李知古 息子。右臺監察裏行[15]

配下

魏政権の配下のうち、官位や爵位が明記されている人物は以下の通り。

  • 翟讓 上柱國司徒・東郡公。
  • 房彦藻 清河公・元帥左長史。
  • 邴元真 大将軍・左長史。
  • 楊徳方 左司馬。
  • 鄭德韜 右司馬。
  • 単雄信 左武候大将軍。
  • 徐世勣 東海郡公・右武候大将軍。
  • 祖君彦 記室。隋の不当性や煬帝の10の罪状をならべた檄文「為李密檄洛州文」著した。
  • 王伯当 琅邪公。
  • 張亮 驃騎將軍
  • 田茂廣 護軍。洛口倉城を築城。「将軍砲」と名付けた発石機を造った。
  • 孟讓 上柱国・総管・斉国公。
  • 柴孝和 護軍。
  • 鄭頲 楊徳方の死後に左司馬となる。
  • 鄭虔象 鄭德韜の死後に右司馬となる。
  • 裴仁基 光祿大夫・上柱国・河東郡公。
  • 裴行儼 上柱国、絳郡公。裴仁基の子。
  • 秦叔宝 驃騎。
  • 程知節 驃騎。
  • 羅士信 総管。
  • 趙仁基 総管。
  • 孟暢 柱国・暦城公
  • 魯儒 總管。
  • 元寶蔵 上柱国・武陽郡公。
  • 魏徴 記室。
  • 許敬宗 記室。
  • 郝孝德 平原公。
  • 邢義期 元帥府記室。
  • 崔世枢 総管。
  • 李育徳 総管。
  • 李儉 記室参軍。
  • 賈閏甫 司兵参軍・記室。
  • 李育德 總管。
  • 朱粲 揚州總管、鄧公。

李密を主人公にした文芸作品

脚注

注釈

  1. ^ 『北史』、「唐上柱國邢國公李君之墓銘」、「唐故邢國公李密墓誌銘」は隴西成紀の出身とする。
  2. ^ 『旧唐書』李密伝では左親侍 (中国語版)、『新唐書』李密伝では左親衛府大都督・東宮千牛備身 (中国語版)に任官したとする。
  3. ^

     金風蕩初節 玉露凋晚林
    此夕窮塗士 空軫鬱陶心
    眺聽良多感 慷慨獨霑襟
    霑襟何所為 悵然懷古意
    秦俗猶未平 漢道將何冀
    樊噲巿井徒 蕭何刀筆吏
    一朝時運合 萬古傳名器
    寄言世上雄 虛生真可愧
    (『隋書』巻70 李密伝)

  4. ^ 『隋書』掲載のものと、『旧唐書』『全唐詩』掲載のものとではいくらか違いがある。『全唐詩』巻733では「淮陽感懐」、『古詩紀』巻136では「淮陽感秋」と題している。
  5. ^ 文帝楊堅が造設した国の穀物倉庫。興洛倉ともいう。所在地は河南郡 鞏県(現在の河南省 鄭州市 鞏義市)。
  6. ^ 『隋書』『旧唐書』『資治通鑑』は「称元年」、『新唐書』は「改元永平」と記す。
  7. ^ 『資治通鑑』巻184の記述。王世充が兵を募り、将士をもてなしているとの情報に、李密は驚いて裴仁基に言った。「近頃こちらは出兵を控えている。王世充は兵糧が今にも尽きようとしており戦いを求めている。ゆえに兵を募って士をもてなし、月の暗い夜を狙って倉城を襲おうとしているのだ」。郝孝德・王伯当・孟譲に命じて洛口倉城の警戒にあたらせたその夜、王世充は来襲した。王伯当と魯儒が迎え撃って隋将費青奴を斬り、敵兵の多くが戦死・溺死した。
  8. ^ 現在の渤海泰山の間の地帯。
  9. ^ 長江淮河一帯。
  10. ^ 前島佳孝は、李淵や宇文化及に対抗するために李密も恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものであるという考えを示した。『隋末李密の東都受官に関する一試論』(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 (原論文:2002年))
  11. ^ 盛彦師は「李密は洛陽に行くと宣言したが実は襄城の張善相に就くのみ」と史万宝に述べた。(『旧唐書』巻69列伝第19付「盛彦師伝」)
  12. ^ 別名「大伾山」。現在の河南省鶴壁市浚県。

出典

  1. ^ 『旧唐書』『新唐書』
  2. ^ 『隋書』『北史』『新唐書』
  3. ^ 『旧唐書』『新唐書』
  4. ^ 『隋書』巻85 宇文化及伝  (中国語). ウィキソースより。 - 是時李密據洛口,煬帝懼,留淮左,不敢還都。從駕驍果多關中人,久客羈旅,見帝無西意,謀欲叛歸。
  5. ^ 『北史』巻60 李弼伝  (中国語). ウィキソースより。
  6. ^ a b c d e f g h 『旧唐書』李密伝  (中国語). ウィキソースより。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『隋書』李密伝  (中国語). ウィキソースより。
  8. ^ 『隋書』巻59 元德太子付伝 越王伝  (中国語). ウィキソースより。
  9. ^ 『隋書』巻85 王世充伝  (中国語). ウィキソースより。
  10. ^ "「唐上柱國邢國公李君之墓銘」『唐代墓志匯編續集』" (中国語). 中國哲學書電子化計劃. 2024年9月13日閲覧。
  11. ^ 唐故邢國公李密墓誌銘  (中国語). ウィキソースより。
  12. ^ 礪波護『文物に現れた北朝隋唐の仏教』法藏館〈法蔵館文庫〉、2023年、91項、ISBN 978-4-8318-2644-2
  13. ^ 『資治通鑑』第183巻大業12年  (中国語). ウィキソースより。
  14. ^ 『新唐書』李密伝  (中国語). ウィキソースより。
  15. ^ 『新唐書』巻72 表第12上 宰相世系2上 遼東李氏  (中国語). ウィキソースより。

参考文献

関連項目

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /