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桂宮宜仁親王

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桂宮宜仁親王
桂宮家
2014年(平成26年)1月13日 撮影
続柄 三笠宮崇仁親王第2男子

宮号 桂宮(かつらのみや)
全名 宜仁(よしひと)
身位 親王
敬称 殿下
お印
出生 (1948年02月11日) 1948年 2月11日
日本の旗 日本東京都 品川区 上大崎
三笠宮邸
死去 (2014年06月08日) 2014年 6月8日(66歳没)
日本の旗 日本 東京都 文京区 本郷
東京大学医学部附属病院
埋葬 2014年 6月17日
日本の旗 日本・東京都文京区 豊島岡墓地
父親 三笠宮崇仁親王
母親 崇仁親王妃百合子
栄典 大勲位
役職 日・豪・ニュージーランド協会総裁
大日本農会総裁
大日本山林会総裁
日本工芸会総裁
日本漆工協会総裁
大相撲オーストラリア公演名誉総裁
桂宮杯全日本水上スキー選手権大会名誉総裁
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桂宮宜仁親王(かつらのみや よしひとしんのう、1948年昭和23年〉2月11日 - 2014年平成26年〉6月8日)は、日本皇族身位親王敬称殿下お印 (かつら)。勲等大勲位宮号桂宮

大正天皇の皇孫(四男の次男)。

三笠宮崇仁親王同妃百合子の第2男子(3男2女のうち第3子)。明仁(上皇)は従兄、徳仁(第126代天皇)は従甥にあたる。姉に近衞甯子(甯子内親王)、兄に寬仁親王、妹に千容子(容子内親王)、弟に高円宮憲仁親王がいる。学位政治学士(学習院大学)。

皇室典範の下、独身宮家を創設した最初の皇族である。住居(正式には「御仮寓」)は東京都 千代田区 三番町6番地18宮内庁分室[1] [注釈 1]

生涯

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生い立ち

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1948年(昭和23年)2月11日 [注釈 2] 三笠宮崇仁親王の次男として生まれた[2]

少年期は学業優秀でスポーツも得意であった。ビートルズが好きでバンドを結成し、国産のスポーツカーに乗りF1レースなど詳しいといった一面もあった[3]

学習院初等科3年生の頃、同級生から「税金で生活しているくせに」と心無い言葉をかけられた[4] [3] 。宜仁親王は同級生の発言に反論できず、深く傷つき、この日を境に「変わってしまった」という[4] 1950年代当時は皇室や宮家の存続が危惧される情勢で、三笠宮家は社会的にも財政的にも一般人同様の質素な生活を送らざるを得ず、宜仁親王は、皇族としてのアイデンティティを維持するのが困難だった[4]

20歳の誕生日の後、1968年(昭和43年)2月27日成年式を行い[5] 大勲位に叙されて[6] 菊花大綬章を授与された。学習院初等科中等科、高等科を経て1971年(昭和46年)に学習院大学 法学部 政治学科卒業。その後、オーストラリア国立大学 大学院に2年間留学した。学習院初等科以来の同級生に、西郷吉太郎(西郷隆盛から4代目当主・元侯爵家)がいる。

帰国後、1974年(昭和49年)から1985年(昭和60年)まで、NHKに嘱託で勤務した[3] ほか、オーストラリアに留学したことが機縁で日豪協会総裁に就任した。他に日本・ニュージーランド協会など各協会の総裁を務めた。この頃は、兄・寛仁親王や弟・憲仁親王と比較して、公の場に姿を現すことはごく少なかった。長く侍従長を務め、三笠宮一家とも親しく接した入江相政日記には、しばしば宜仁の病状や体調に関する言及が見られる[7]

伯父の高松宮宣仁親王を強く敬慕していたこと、また皇族の数がすでに減少傾向にあったことから、高松宮の死後、大日本農会大日本山林会日本工芸会、日本漆工協会の各総裁を受け継いだ。とりわけ大日本農会にあっては、農事功績者[注釈 3] の紫白綬有功章・紅白綬有功章・緑白綬有功章の記章の授与を行うなど、表彰をはじめとした各行事に臨席した。

桂宮創設と闘病

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桂宮家
家祖 桂宮宜仁親王
(三笠宮崇仁親王第2男子/大正天皇皇孫)
種別 皇族(宮家)
出身地 東京都
主な根拠地 東京都千代田区 三番町6番地18宮内庁分室
著名な人物 桂宮宜仁親王
凡例 / Category:日本の氏族

1988年(昭和63年)1月1日に、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えられ[8] 、独立の生計を営むようになった。宮号はお印カツラ(桂)に因んだもので、かつての四親王家の一つである旧桂宮家とは無関係とされているが、区別をする必要がある時は、おのおのに「新旧」をつける事がある。系統としては高松宮家から引き継いだ物が多いため、祭祀などについては有栖川宮家に系統が近い。同年2月20日に、宮家創設の祝宴を開いた。現時点では直宮家以外の宮家創設としては最後である。

その3か月後の同年5月26日、約一週間前から風邪で寝込んでいたが、この日は午後になっても起床しないため、宮家職員が様子を見に行ったところ、ベッドの脇で意識不明の状態で倒れている宜仁親王を発見した[9]

すぐに都立広尾病院に入院して、緊急手術を受けた[10] 。病名は未公表ながら、急性硬膜下血腫などと報道された[9] [10] 。また、従来より肥大型閉塞性心筋症の持病があったことも報じられた[3]

急性硬膜下血腫は、厳密には病気ではなく症状であり、頭部の強打により脳挫傷が起き、から出血して硬膜と脳の間に血液がたまり脳を圧迫するもので、死亡率はきわめて高い[11] 。宜仁親王の右顔面、右肩、腰に打撲があった[9] という状況からも、転倒・転落などの事故があったことになる。

同年8月に意識を回復し[12] 、同年11月に退院した[13] 。翌1989年(昭和64年/平成元年)初めにあった昭和天皇の崩御と、第125代天皇明仁の践祚に伴う一連の行事は欠席したものの、リハビリテーションの甲斐もあり、1991年(平成3年)11月には公務に復帰した。以降、身体の自由がほとんど効かなくなり[3] 、右目の視力の喪失、記憶障害、右半身の麻痺といった後遺症を抱えつつも、宮内庁職員の世話を受けながら車椅子を使用して公務を行なった。

2008年(平成20年)9月28日、予定されていた第63回国民体育大会の観覧出席を急遽取りやめ、敗血症の疑いで東京大学医学部附属病院に入院した。同年12月2日には、集中治療室から一般病棟に戻ることができ、リハビリも本格的に始めた。翌年の2009年(平成21年)3月29日に退院して、宮邸で療養につとめた。

2011年(平成23年)冬、唾液などが気管に入って発症する誤嚥性肺炎が頻発したため、喉頭を塞ぐ声門閉鎖手術を東京大学医学部附属病院で受け、同年12月30日に退院した。このときの手術により発声能力を失った。

薨去

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2014年(平成26年)1月、高熱のため東京大学医学部附属病院に1か月入院。以後は、発熱などで入退院を繰り返した。同年6月8日午前9時すぎ、東京大学医学部附属病院に救急搬送されたが、すでに心肺停止の状況だった。同日午前10時55分、急性心不全により薨去[14] 。66歳。これにより、三笠宮崇仁親王・同妃百合子夫妻の間に生まれた3人の男子全員が薨去し、男系断絶が確定した。

薨去にあたっては内閣総理大臣謹話が発表され[15] 、一般からの弔問記帳を受け付けた(同月10日〜16日までの7日間で3,268人が記帳)[16] 。同年6月17日には、父の三笠宮崇仁親王が喪主(喪主代理は姪の彬子女王)、生前親交のあった一條實昭が司祭長を務め、司祭副長にはNHK勤務時の同僚の長谷昴彦が就いた[17] 豊島岡墓地喪儀(斂葬の儀)が執り行われ[18] 、560人が参列した。墓所は同じく豊島岡墓地[18] に、兄の寬仁親王、弟の高円宮憲仁親王の墓所と並ぶように建立された。

備考

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政府の正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠することはないため、それらの告示を掲載する官報では「宜仁親王」と表記され、「桂宮」は冠さない。ただし、同じ政府の表記であってもホームページなど「国民一般に対するわかりやすさ」を重視する場面では「桂宮」の表記も用いる。

ちなみに戦後新宮家の設立は、次男以下が婚姻により独立の生計を営む皇族となったことを契機にして行うことが多いが、宜仁親王は独身のまま宮家を創設している。生涯にわたり妻子が無かったことから、桂宮家は「一周年祭の儀」と、その二日後の「権舎の儀」を経て断絶した[注釈 4] 。日頃から「皇族が結婚することは苦しむ人間を一人増やすことだから自分は結婚しない」と述べており[19] 、生涯独身を貫いた。

栄典・称号

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勲章

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日本

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外国

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役職

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系譜

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1950年頃、左から兄:寬仁親王、母:百合子妃、宜仁親王、姉:甯子内親王
宜仁親王 父:
崇仁親王(三笠宮) 祖父:
大正天皇
祖母:
貞明皇后
母:
百合子 祖父:
高木正得
祖母:
高木邦子

系図

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悠仁親王

脚注

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注釈

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  1. ^ 正式な宮邸ではなく、赤坂御用地の外に仮寓していた。
  2. ^ この日は皇居にて最後の紀元節という名の祭礼がおこなわれた日でもある。現在は建国記念の日となっている。
  3. ^ 農業の発展に功労ある農家への栄誉として、1894年(明治27年)に創設された称号。
  4. ^ 宮家廃絶の儀式は、宮家#宮家の継承・創設・断絶を参照。

出典

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  1. ^ 『官報』第18259号7ページ「皇族御仮寓」、1988年1月4日
  2. ^ 1948年(昭和23年)2月11日宮内府告示第3号「崇仁親王妃百合子殿下御分娩親王御誕生」
  3. ^ a b c d e "桂宮さまご逝去 独身で宮家創立の理由". 2023年3月10日閲覧。
  4. ^ a b c 高円宮殿下伝記刊行委員会 編『高円宮憲仁親王』読売新聞社中央公論新社、2005年6月25日、86頁。 
  5. ^ 1968年(昭和43年)2月28日宮内庁告示第3号「宜仁親王殿下が成年式を済ませられた件」
  6. ^ a b 『官報』第12359号17頁「叙位・叙勲」1968年(昭和43年)2月28日
  7. ^ 入江相政日記』、昭和57年8月7日条・同年11月11日条など
  8. ^ 1988年(昭和63年)1月1日宮内庁告示第1号「天皇陛下は、昭和六十三年一月一日、宜仁親王殿下に、桂宮の称号を賜つた件」
  9. ^ a b c 「桂宮さま緊急手術 頭に血シュ、こん睡状態」『読売新聞』1988年5月27日。
  10. ^ a b 「桂宮さま、急性硬膜下血腫で緊急手術」『朝日新聞』1988年5月27日。
  11. ^ 脳神経外科情報ページ:急性硬膜下血腫 2022年5月5日閲覧
  12. ^ 「桂宮さま、意識回復」『朝日新聞』1988年8月30日。
  13. ^ 「桂宮さま、半年ぶりに退院」『朝日新聞』1988年11月21日。
  14. ^ 2014年(平成26年)6月10日宮内庁告示第5号「宜仁親王殿下が薨去された件」
  15. ^ "平成26年6月8日 内閣総理大臣謹話 | 平成26年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ". 首相官邸ホームページ. 首相官邸 (2014年6月8日). 2014年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
  16. ^ "桂宮さま、17日に「斂葬の儀」". 日本経済新聞. (2014年6月16日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG16039_W4A610C1CR8000/ 2014年6月17日閲覧。 
  17. ^ "庶民派の殿下にお別れ 桂宮さま「斂葬の儀」". 日本経済新聞. (2014年6月17日). https://www.nikkei.com/article/DGXNZO72856950X10C14A6CR0000/ 2014年6月17日閲覧。 
  18. ^ a b 2014年(平成26年)6月11日宮内庁告示第6号「故宜仁親王の喪儀を行わせられる期日、場所及び墓所を定められた件」
  19. ^ 所功『日本の宮家と女性宮家』新人物往来社、2012年、244頁。ISBN 9784404042514 
  20. ^ "Le onorificenze della Repubblica Italiana". www.quirinale.it. 2022年7月10日閲覧。
  21. ^ "協会の歴史と歩み | JANZについて | 公益社団法人日・豪・ニュージーランド協会". 2022年7月10日閲覧。
  22. ^ "歴代の総裁 | 公益社団法人 大日本農会 | 農業の発展及び農村の振興を図ることを目的として,様々な事業を行っています。大日本農会は2021年に創立140年を迎えました". www.dainihon-noukai.or.jp. 大日本農会. 2022年7月10日閲覧。
  23. ^ 竹原秀雄『山林』1233号、大日本山林会、1987年2月5日、1-3頁http://sanrin.sanrinkai.or.jp/pdf/1350260990/1233.pdf?#page=3?2022年7月10日閲覧 
  24. ^ "桂宮家のご活動 - 宮内庁". 宮内庁. 2022年7月10日閲覧。

外部リンク

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ウィキメディア・コモンズには、桂宮宜仁親王 に関連するカテゴリがあります。
ウィキソースに崇仁親王妃百合子殿下御分娩親王御誕生 の原文があります。
ウィキソースに宜仁親王殿下が薨去された件 の原文があります。
親王旗 (皇族旗) 近現代日本の親王 菊の御紋
明治天皇より下の世代で、親王と公称した人物。第1世代は明治天皇の子の世代。太字皇位を継承した(天皇に在位した)親王。
第1世代
(猶子)
第2世代
第3世代
第4世代
第5世代
関連テンプレート:Template:近現代日本の内親王
皇室典範に基づく現存の宮家
近代以降の直宮家
四親王家
1947年皇籍離脱
断絶した宮家
時代は断絶時期を示す
鎌倉時代
室町時代
江戸時代
1947年以前
1947年以降
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