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賀名生

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賀名生皇居跡(堀家住宅)
地図
西吉野町賀名生の地点

賀名生(あのう)は、奈良県 五條市(旧吉野郡 西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都となった地域の一つ。

概要

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もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇行宮吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平6年、北朝観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統 )「賀名生」に改めたという伝承が残る。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。

後村上天皇の遷幸より前の1336年(延元元年、北朝の建武3年)12月21日、後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月23日穴生に至ったが、行宮とすべきところがなかったのと高野山 衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念し、同月28日吉野山に至った。

歴史

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「南朝三帝賀名生皇居之址」の碑

1348年(正平3年、北朝の貞和4年)正月に楠木正行四条畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ないのを知り、吉野を引き払い穴生に移った(当時の皇居は総福寺であったと推測される)。同年、高師直率いる足利軍が吉野に来襲し、行宮、社寺などを焼き払い帰った。

1351年(正平6年、北朝の観応2年)、室町幕府の内紛(観応の擾乱)により、足利尊氏が一時的に南朝に降伏し、一旦南朝に統一された(正平一統)。しかし政争上の形式的なものであり、本格的な統一ではなかった。

1352年(正平7年、北朝の観応3年)、後村上天皇は北征軍を興し、摂津国住吉から都に近い山城国の男山(京都府八幡市)に移り都に睨みを利かせた。尊氏の子である室町幕府第2代将軍足利義詮はこれに対するために正平一統を破棄し、再び北朝を擁立した。5月、北征軍は京都を回復することができずに賀名生に帰ったが、この時北朝方の皇族(光厳上皇崇光上皇直仁親王)を拉致し、さらに南朝側は偽器と主張していた「北朝の三種の神器」をも押収した。北朝方は天皇不在となったため、出家を予定していた弥仁王を後光厳天皇として践祚させた。

後村上天皇は1354年(正平9年、北朝の文和3年)10月に河内天野山金剛寺(大阪府河内長野市)に移った。6年後の1359年(正平14年、北朝の延文4年/応安元年)には河内観心寺(河内長野市)に移り、さらに翌年摂津国住吉に移って住吉宮の祠宮津守の館を行宮とし、1368年(正平23年、北朝の貞治7年)、住吉宮で死去した。

のち長慶天皇を経て後亀山天皇が践祚するに及び、1373年(文中2年、北朝の応安6年)8月よりまた賀名生を行宮とした。以後1392年(元中9年、北朝の明徳3年)、南朝が京都に帰り神器を北朝の後小松天皇に伝えるまでの20年間、賀名生は南朝の行宮であった。

江戸時代は、当初は松倉氏の大和五条藩領地、後に御領(幕府直轄領)。幕末には天誅組吉村寅太郎がこの地を訪れ、行宮跡で「賀名生皇居」の扁額を書いた。

明治以降は吉野郡 賀名生村が存在したが、1959年(昭和34年)に合併し西吉野村となった。西吉野村は2005年(平成17年)9月25日、市町村合併で五條市の一部になった。

1959年の合併以降、「賀名生」という地名は通称としてのみ使われていたが、2011年(平成23年)4月1日に西吉野町和田地区の一部が西吉野町賀名生と変更され、住所表記として賀名生が復活した[1]

南北朝時代から賀名生林が有名であり、明治以降は実を収穫するための植林も盛んに行われた。1923年(大正12年)、東宮(後の昭和天皇)成婚を記念して5千本の梅が植林された。現在はの生産も盛んである。

この土地には日本国有鉄道 五新線が通る予定で、途中の阪本まで建設が進められていたが中止され、用地の一部はバス専用道路に転用され、代替のバス路線が運航した。2014年 10月1日、五新線の路盤を利用していたバス専用道が廃止され、一般道経由となった。

堀家住宅

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堀家住宅(伝・賀名生行宮跡)

上述の吉村が扁額を書いた賀名生の行宮跡には、従者の住まいだったとされる建物の一部が現存する。堀信増が提供した住居であるため(現在も子孫が所有)、「堀家住宅 賀名生皇居跡」と呼ばれる住宅は、古民家として1979年に国の重要文化財に指定されている。1998年(平成10年)に解体修理を行った。2003年(平成15年)1月18日、後醍醐天皇から下賜されたと伝承がある日の丸の旗(明治時代以前は国旗ではなかったが)や、天誅組の寄せ書きなど約80点が盗難にあった。その後、日の丸は2年後に回収され[2] 、天誅組の寄せ書きは10年後に回収された[3] 。堀家住宅は春と秋に有料で一般公開、予約制であった。

2019年3月、改装を経て、宿泊施設とレストラン、結婚式場として営業を開始した。

ギャラリー

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交通

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  • 奈良交通バス五條西吉野線
    • 賀名生農協前バス停
    • 賀名生和田バス停
    • 賀名生和田北口バス停
  • 八木新宮線賀名生和田北口バス停。

脚注

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  1. ^ 「賀名生の里祭」ニュース&イベント情報(2012年8月15日時点のアーカイブ)より。
  2. ^ 「文化財窃盗事件:最古の日の丸など、被害総額4億円に」『毎日新聞』2005年7月1日 大阪朝刊 30頁。「文化財窃盗事件:被告に懲役7年--奈良地裁支部判決」『毎日新聞』2005年10月21日 大阪朝刊 31頁。
  3. ^ "盗難から10年の奇跡 - 天誅組の史料戻った". 奈良新聞デジタル. https://www.nara-np.co.jp/news/20130826105452.html  

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯34度17分56秒 東経135度43分12秒 / 北緯34.29881度 東経135.71994度 / 34.29881; 135.71994

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