趙飛燕
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趙皇后 | |
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前漢の皇后 | |
趙飛燕 | |
在位 | 紀元前16年 - 紀元前7年 |
全名 |
趙飛燕 趙宜主(元名) |
死去 |
元寿2年(紀元前1年) |
配偶者 | 成帝 |
妹 | 趙合徳 |
立后前身位 | 昭儀 |
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趙 飛燕(ちょう ひえん、? - 紀元前1年)は、前漢 成帝の皇后。元名を宜主と称した。
略歴
正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常に簡単なものであるが、稗史においては美貌をもって記述されており、優れた容姿を表現する環肥燕瘦の燕痩が示すのが趙飛燕である(環とは楊貴妃のこと、幼名・玉環による)。
その出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を飛燕とし歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝の目にとまり後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、さらに妹の趙合徳が昭儀として入宮されることも実現している。成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが、前18年 12月に許皇后を廃立し、前16年に立后が実現した。
前7年、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことによりその死因に疑問の声が上がり、妹の趙合徳が自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自らの子がなかったため哀帝の即位を支持、これにより哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし前1年に哀帝が崩御し平帝が即位すると、支持基盤を失った趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪され、皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、さらに庶人に落とされ、間もなく自殺した。