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呉孟姚

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呉 孟姚(吳孟姚、ご もうよう、生年不詳 - 紀元前301年)は、武霊王の夫人で、恵文王の母。字は娃嬴。

孟姚は呉広の娘として生まれた。ときに武霊王は王の娘をめとって夫人とし、その韓夫人の生んだ子の章を太子に立てていた。紀元前310年、武霊王は大陵に遊んで、処女が鼓や琴を演奏して歌うのを夢に見た。その歌詞は「美人は灯りに照らされ、顔はノウゼンカズラのほころぶよう。天命であろうか、我が豊かさはかつてないものだ」というものであった。別の日に武霊王は酒を飲んで楽しみ、夢に見た女性の姿かたちを語った。呉広はこれを聞いて、孟姚を入内させた。孟姚は武霊王の寵愛を受け、公子何(のちの恵文王)を生んだ。后に立てられて恵后となった[1] 。なお『列女伝』は孟姚が韓夫人や太子章を讒言して廃位させ、自らを恵后に立てさせ、子の何を王とした[2] としている。

紀元前301年、恵后は死去した[3]

脚注

  1. ^ 史記』趙世家
  2. ^ 『列女伝』孽嬖伝「趙霊呉女」
  3. ^ 史記索隠』はこの恵后を太子章の母で恵文王の嫡母であるとし、紀元前264年に亡くなった「恵文后」を孟姚のことと解釈した。『史記会注考証』は陳仁錫を引いてこれを否定し、恵后は呉娃孟姚であり、恵文王の生母であるとした。

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