蜂須賀宗鎮
蜂須賀宗鎮像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保6年8月8日(1721年 9月28日) |
死没 | 安永9年8月27日(1780年 9月25日) |
改名 | 松之助(幼名)、松平頼珍、蜂須賀正泰、宗鎮 |
墓所 | 徳島県 徳島市 下助任町の興源寺 |
官位 | 従四位下 阿波守、木工頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 阿波 徳島藩主 |
氏族 | 松平大膳家、蜂須賀氏 |
父母 |
松平頼熙、佐野氏 蜂須賀宗英 |
兄弟 | 松平頼桓、宗鎮、至央 |
妻 |
元姫 久米氏、小瀬氏 |
子 |
休光、美子ら 重矩 、重隆 、至央 |
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蜂須賀 宗鎮(はちすか むねしげ)は、阿波国 徳島藩8代藩主。もとは讃岐国 高松藩一門松平大膳家第2代。
生涯
松平大膳家初代の松平志摩頼煕の次男。兄に高松藩主・松平頼桓がいる。生母は佐野氏。初名は松平頼珍(まつだいら よりよし)。通称は松之助、志摩。
元文元年(1736年)、父松平頼熙の家督を相続して禄高3,000石。
元文4年(1739年)10月9日、阿波 徳島藩主・蜂須賀宗英の婿養子に迎えられる(松平大膳家の家督は弟の頼央が相続)。養子入りに際し正泰(まさやす)と改名。同年10月15日、将軍・徳川吉宗に御目見をし、その偏諱を受けて宗鎮(「鎮」は初代藩主至鎮の1字を取ったもの)に改名。同年12月11日、従四位下隼人佐に叙任する。後に阿波守に改める。同年12月22日、養父・宗英の隠居によって家督を相続する。寛保元年(1741年)12月19日、侍従に任官する。
宝暦4年(1754年)5月22日、隠居し、弟の頼央(改め蜂須賀至央)を今度は蜂須賀家の養嗣子に迎えて家督を譲った。宗鎮はそれまでに蜂須賀家の血筋から重矩、次いで重隆を養嗣子としていたが、重矩は早世し、重隆は廃嫡していた。しかし、至央は病気のためわずか60日余で没し、末期養子として出羽 久保田藩 佐竹家から重喜を迎えることになった。
隠居後、宗鎮は通称を木工頭に改めている。隠居後に生まれた息子の休光は公族(藩主一門)となった。
安永9年(1780年)8月27日、徳島において死去、60歳。
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興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)
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万年山墓所の墓所(徳島県徳島市眉山町)
事績
寛延3年(1750年)7月、宗鎮は、幕府から日光東照宮堂社修復の御用を命ぜられた(いわゆる日光御手伝普請)。前回の普請経験者である越前松平家(松平宗矩)や元禄・正徳期の御手伝である仙台伊達家に対し、江戸留守居役を通して先格伺いを行ない、普請をつつがなく執り行なった。その時の江戸留守居役は速水倫助と長尾重助の2名。日光御手伝普請における家臣団の動員は数百単位であり、かつ江戸などで雇い入れた労働者(大工など)の賃銀(賃金)も御手伝方の負担であった。
御手伝普請の総費用は莫大であり、数万両に及んだ。その結果、次代においては末期養子で迎えられた若き藩主・重喜によって改革が断行されてゆく。
系譜
- 父:松平頼熙(1700-1737)
- 母:佐野氏
- 養父:蜂須賀宗英(1684-1743)
- 正室:元姫(?-1742) - 鳳台院、蜂須賀宗英の養女、蜂須賀吉武の娘
- 女子
- 側室:久米氏
- 男子:岩松
- 側室:小瀬氏
- 側室:某氏
- 男子:亀千代
- 女子
- 女子
- 女子
- 男子:万蔵
- 養子
参考文献
- 『蜂須賀家記』
松平大膳家2代当主 | |
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