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恭仁京

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ファイル:Yamashirokokubunji04 960.jpg
大極殿(金堂)跡
山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。京都府立山城郷土資料館

恭仁京(くにきょう、くにのみや)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国 相楽郡の地。現在の京都府 木津川市に位置する。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも。

1957年7月1日「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定された。その後の学術調査の進展に伴い、2007年2月6日付で史跡指定範囲が拡大され、指定名称も「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。

概要

藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日 聖武天皇によって、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として左大臣橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。

741年の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、宮殿が造られた。都としては完成しないまま743年の末にはこの京の造営は中止されて聖武天皇は紫香楽宮に移り、744年難波京に遷都、さらに745年、都は平城京に戻された。

わずか3年余りの都であったが、日本の文化史上の重要事項である「国分寺・国分尼寺建立の詔」と、「大仏造立の詔」はこの都で出され、実行に移された。

山城国分寺

遷都後、宮城の跡地は山城国分寺として再利用されることになった。大極殿は金堂に転用されたという。

南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域を有していた。金堂の東側は国分寺の鎮守社である御霊神社の境内地だったとされる。

現在は広大な平原となっており、金堂(大極殿)礎石と七重塔礎石が地表にのこされている。

関連事項

交通アクセス

周辺情報

外部リンク

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