仮名遣い
仮名遣(かなづかい)とは、日本語の正書法のうち、仮名で表記される部分についての規則である。狭義には和語を仮名で表記する場合の規則(国語仮名遣)のみを言うが、広義には漢語(漢字)の読みを仮名で表記する方法(字音仮名遣 )を含む。
本項目では固有名詞と引用を除き「仮名遣」と表記する。これは「仮名遣」「仮名遣ひ」「仮名遣い」などの表記方式を包括するためであるが、今日一般には「現代仮名遣い」と「送り仮名法」に従い「仮名遣い」と書かれることが多い。
お互いの立脚する所が異なるので一律に比較して述べることはむつかしいが、対照的であるのは主に次の点である。 仮名遣の比較も参照。
- 所謂歴史的假名遣では(橋本進吉博士の「表音的假名遣は假名遣にあらず」を要約すると)
- 主に語を記述するために観念として表意的な表記を重視して、それは原則として語の表意性に基づく(語源・文法の実証を古典に求める)。
- 従に音を記述するために現実として表音的な表記も重視して利用する。これは一貫性のない規則など、音便や方言の意図的な表音表記に適用される。
- 橋本博士の謂う所の「表音的假名遣」を「假名遣」と認めず、(後述の論を纏めると)「現代仮名遣い」はその「表音的假名遣」であるとする。
- 「歴史的假名遣」は語(の表意性)に基づくと定義する。
- 所謂現代仮名遣いでは(金田一京助博士の「新かなづかい法の学的根拠」を要約すると)
- 主に仮名が表音文字である現実を重視して、発音通りに表記できることを目的とする。それは原則として現代語音に基づく(観念的な現代音韻に求める)。
- 従って語の観念(表意性)は表記に於て無視されるが、例外もあり、それは語意識の高さ(表意性の認識)から過去の書記習慣と妥協する場合である(「はをへ」)。
- 橋本博士の謂う所の「表音的假名遣」が「假名遣」か否かは言及しないが、「現代仮名遣い」はどこまでも正書法だから何にせよそれにあたらないとする。
- 「歴史的假名遣」は上代語(の表音性)に基づくと定義する。
「歴史的假名遣」は必要に応じて仮名の表意と表音を使い分け、「現代仮名遣い」では仮名の表音を重視して表意は「歴史的假名遣」と妥協した表記と看做している。特に後項二つは、お互いの定義に対する主張が異なるので、仮名遣の各論では注意を要する。
歴史と概観
仮名遣の問題は古くから存在した。しかし仮名遣の理念やその方向性が定まり、また実際に寛く文字通り遣われるようになったのはごく最近明治以降のことである。今日では和語や漢語、そして外来語などを如何に表記するかを定め規範となす物をいう。
仮名遣の誕生
仮名は平安初期に完成したといわれており、仮名で文字を綴る仮名文の興りはこの時代に求められる。しかし時代が下るごとに(現在の音韻学によると)発音が変化し、平安後期には「い・ひ・ゐ」「え・へ・ゑ」「お・を」の区別がむつかしくなっていたとされる(以下音韻の変遷については異論があっても註を入れず、特筆すべき場合以外は音韻学の一般的な見解による)。それまでの人々は頭に浮ぶ音で語を綴ればよかったがいつのまにか同じ音の文字が現れ、その区別がわからないのに区別できる文字があると、どれを遣ったらよいかわからず混乱が生じた(後述の橋本博士の論文参照)。そんな中藤原定家は自身の持つ古典(平安初期)と今(平安後期)の人とが書く文書(歌)を比べ、古典では仮名がある規則に従っているが今の人の表記は乱れている(統一性が無い)事に気がついたとされる。そこで定家は古典の表記を抜萃し、辞書的にこれ並べ、古典に従うとよいだろうと拾遺愚草(歌論の本)を清書させるに示したといわれ、それが今日に伝わっている。
この表記の混乱が仮名遣を要求し、従ってその基準を示すという仮名遣を定めるに至ったと解釈できる。一方で表音的思考がなかったかというと、この時代にもあったが、仮名遣自体意識された規範ではなかったので深く議論されなかった。
後に源親行によって拾遺愚草を清書した假名文字遣が著され、親行の孫知行(行阿)により増補された行阿仮名遣へ変化してゆく。この頃には「ほ、は、わ、む、う、ふ」などが追加され、また時代と共に幾度となく修正・増補が加えられ、仮名文字を必要とする人々の規範になった。また仮名は多く和歌に用いられたこともあり、歌仙と讃えられた定家が作ったとされる仮名遣はこれら行阿仮名遣も、「定家仮名遣」として多く流布した。
上代古典の研究
戦乱も明け安定した江戸時代になると現存した上代の古典は、江戸中期に国学者本居宣長が現れるまで解読不能に陷っていた古事記の解読が熱心にすすめられたことからわかるように、王朝文化への憧れと共に発揚した国学と同じくして読み進め研究する事が国学者の必然であった。そんな中で江戸初期に契沖が和字正濫鈔を著し、平安初期以前の文献から混乱の無い表記を見いだした契沖仮名遣が示される。
契沖は定家仮名遣の誤りをただし、ただ古典に従うをよしとした仮名遣に「語義を書き分けるため」という結論を付け加えた。契沖は悉曇学の「音韻」を重視する考えに影響を受けていて、古くは音韻の別があってだから語義を書き分ける必要があったと考えていたようである(後述)。
後に本居宣長はこの研究を元に字音仮名遣の体系を示したが、その復元法の一部は支那古典の音韻に基づく物であって、後述の理念とはやや一線を劃す。字音仮名遣の扱いが資料によってまちまちなのは、どこまでを仮名遣と認めるべきか、その認識に大きく差があるからである。
仮名遣の理念
明治になって学校教育を始めるにあたり、仮名文字を綴る既存の規範は所謂定家仮名遣(増補された物)のみであり、これを仮名遣として採用した。ところが契沖の示す所の「語義を書き分ける」という点は、一部で尤もらしいが、一部で矛盾を抱えている。漢語を除き、語彙を同一の時代に絞ったとしても、やはり「語義を書き分ける」という点は原理としては不十分で、たびたび「表音的仮名遣」が取り沙汰された。
国語教育の問題に関せずして仮名遣の研究が国学者の間で続いていたが、昭和初期になり新たな研究成果が示された。本居宣長の弟子でもあった江戸後期の国学者石塚龍麿が著した「古諺清濁考」「假名遣奧山路」が、昭和初期になり初めて国学者橋本進吉・時枝誠記によって再評価されるに至ったのである。橋本博士は昭和六年九月に上代特殊仮名遣を発表した学者として名高い(上代の文獻に存する特殊の假名遣と當時の語法)が、同時に国語の音韻学にも影響を与えた。假名遣奧山路では上代の文献においてのみみられる特殊な仮名遣が、古諺清濁考では清濁音の混乱が上代の文献においてみられることが示されていた。上代特殊仮名遣による音韻論でも言及されているが、古諺清濁考による清濁音の混乱が認められることから、仮名遣自体が音韻の変化をとどめている物と看做すことは危険である。現存する古典から完全に類推できるのは古い語の綴り方のみであって、だから歴史的假名遣では仮名遣は語によってのみ決まるのである。
以上を踏まえて初めて仮名遣とは過去の「音韻」による物でもなければ、時枝博士が評する所の契沖の「語義の標識」でもなく、「語に従う」ものであることを橋本博士は示し、昭和十七年にそれを発表した(表音的假名遣は假名遣にあらず)。また「仮名文字」の扱いと表音主義に対して次のように警告した。「仮名文字」は誕生と共に表音(頭の中にある音)を書き表わすことを指向したのではなく、「仮名文字」による仮名文は誕生当初から飽くまで語を綴ろうとしたのであって、表音主義ではそこを誤解しているというのである。
(五)《前略》假名遣に於ては、その發生の當初から、假名を單に音を寫すものとせずして、語を寫すものとして取扱つてゐるのである。さうして假名遣のかやうな性質は現今に至るまでかはらない事は最初に述べた所によつて明かである。然るに今の表音的假名遣は、專ら國語の音を寫すのを原則とするもので、假名を出來るだけ發音に一致させ、同じ音はいつでも同じ假名で表はし、異る音は異る假名で表はすのを根本方針とする。即ち假名を定めるものは語ではなく音にあるのである。これは、假名の見方取扱方に於て假名遣とは根本的に違つたものである。かやうに全く性質の異るものを、同じ假名遣の名を以て呼ぶのは誠に不當であるといはなければならない。これは發生の當初から現今に至るまで一貫して變ずる事なき假名遣の本質に對する正當な認識を缺く所から起つたものと斷ぜざるを得ない。《後略》 — 表音的假名遣は假名遣にあらず(橋本進吉/昭和十七年八月)
以上は「表音的假名遣」が「仮名遣」ではないとするその結論の一部であるが、次節ではその導入部分を示す。なお「現代語の語音に基づく」べしとする後述の「現代かなづかい」では、多く「歴史的假名遣」が「古代語の音に基づいている」とされ、橋本博士の主張とは異なるので注意が必要である。
《前略》いわゆる歴史的かなづかいは、古代語の語音に基づいている。すなわち、旧かなづかいは、古代語を書いていたものであるが、現代かなづかいは、現代語を書くことにするということである。《後略》 — 新かなづかい法の学的根拠(金田一京助)抜萃
歴史的假名遣の総括
歴史的假名遣が最終的に到達した理念「語に従う」ことについてはここで述べられている通りである。
(一)假名遣といふ語は、本來は假名のつかひ方といふ意味をもつてゐるのであるが、現今普通には、そんな廣い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の假名の用法に關してのみ用ゐられてゐる。さうして世間では、これらの假名による國語の音の書き方が即ち假名遣であるやうに考へてゐるが、實はさうではない。これらの假名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へて見ても、どの假名で書くべきかをきめる事が出來る筈はない。それでは假名遣はどうしてきまるかといふに、實に語によつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、 その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」と書く。同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。
この事は古來の假名遣書を見ても明白である。例へば定家假名遣といはれてゐる行阿の假名文字遣は「を」「お」以下の諸項を設けて、各項の中にその假名を用ゐるべき多くの語を列擧してをり、所謂歴史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄も亦「い」「ゐ」「ひ」以下の諸項を擧げて、それぞれの假名を用ゐるべき諸語を列擧してゐる。楫取魚彦の古言梯にいたつては、多くの語を五十音順に擧げて、一々それに用ゐるべき假名を示して、假名遣辭書の體をなしてゐるが、辭書はいふまでもなく語を集めたもので、音をあつめたものではない。これによつても假名遣といふものが語を離れて考へ得べからざるものである事は明瞭である。
— 表音的假名遣は假名遣にあらず(橋本進吉/昭和十七年八月)
表音的假名遣といふものは、國語の音を一定の假名で書く事を原則とするものである。その標準は音にあつて意味にはない。それ故、如何なる意味をもつてゐるものであつても同じ音はいつも同じ假名で書くのを主義とするのである。「愛」でも「藍」でも「相」でもアイといふ音ならば、何れも「あい」と書くのを正しいとする。それ故どの假名を用ゐるべきかを定めるには、どんな音であるかを考へればよいのであつて、どんな語であるかには關しない。勿論表音的假名遣ひについて書いたものにも往々語があげてある事があるが、それは只書き方の例として擧げたのみで、さう書くべき語の全部を網羅したのではない。それ以外のものは、原則から推して考へればよいのである。然るに古來の假名遣書に擧げた諸語は、それらの語一つ一つに於ける假名の用法を示したもので、そこに擧げられた以外の語の假名遣は、必ずしも之から推定する事は出來ない。時には推定によつて假名をきめる事があつても、その場合には、音を考へていかなる假名を用ゐるべきかをきめるのではなく、その語が既に假名遣の明らかな語と同源の語であるとか、或はそれから轉化した語であるとかを考へてきめるのであつて、やはり箇々の語に於けるきまりとして取扱ふのである。
以上述べた所によつて、古來の假名遣は(定家假名遣も所謂歴史的假名遣も)假名による語の書き方に關するきまりであつて、語を基準にしてきめたものであり、表音的假名遣は假名による音の書き方のきまりであつて、音を基準としたものである事が明白になつたと思ふ。
「語に従う」とは、「音」が「語」となるにつれ、「表音文字」であった仮名文字が観念に於いて「表語文字」或いは「表意文字」へと変わる(則ち「單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味がある」)ことを述べる。正書法とは「語意識」則ち「表語」にあって「表音」にはなく、その事は「現代かなづかい」が正書法を主張する理由に於いて土岐善麿氏も述べている(後述)。
一方で仮名の表音性は重視すべきことかと云えばそうではないと論じる。前述したけれども、清濁表記の混乱があったために、必ずしも表記の違いが音韻の違いを表したとはいえない。音韻と表記が一致したとしても「歴史的假名遣」の本質は、「國語の音をいかなる假名によつて表はすかといふ事が問題となつたのでなく、もとから別々の假名として傳はつて來た多くの假名の中に同音のものが出來た爲、それを如何に區別して用ゐるか〔同上(5)より抜萃〕」が問題になったのであり、「文語(文字言語)」や「口語(音声言語)」に基づく仮名遣は「仮名遣」としては別の物なので注意すべきだと警告した。
留意しておきたいのは、音を明確に示したい場合に表音的仮名遣を遣う余地が歴史的假名遣にはある点である。歴史的假名遣では、擬音や方言(方言の読みを示したい乃至語源がよくわからない場合、狭義の音便を含む)は飽くまで「音」であるから「音の書き方のきまり」である表音的な假名遣を用い、それが「語」になって初めて「語を書くきまり」である歴史的假名遣を遣うとよい、と橋本博士は述べている(昭和十五年の「國語の表音符號と假名遣」も参照)。歴史的假名遣では表音的な表記ができないというのは誤謬であろう。
然し乍らこれらの研究成果は教育にfeedback(饋還)されることもなく敗戦、占領軍による統治政策下により仮名遣もまた大きな転換期を迎えた。
表音の擡頭
字音仮名遣の習得のむつかしさから、歴史的假名遣の批判は明治よりされてきた。そこに占領下の日本においてGHQの指令によりさまざまな近代化策が取られ、国語教育が大きく転換したのにこの影響がないかといえば噓になろう。これまで歴史的假名遣に抑えつけられていた表音的仮名遣が擡げられ、近代化のために「発音による」仮名遣たる「現代かなづかい」が告示される。
橋本博士は「表音的假名遣は假名遣にあらず」とその存在を否定しているが、ここでは「現代かなづかい」は「表音的假名遣」を包括した存在であるとし尚且つ「表音的假名遣」が「假名遣」であるか否かは「現代仮名遣い」の項に譲ることとする。
現代かなづかいの告示
「現代かなづかい」は「表音主義」を本則とした物であった。しかしながら「表音主義」では不便がある(後述)ので、「こおり」など歴史的假名遣ではハ行音である物「お列長音」、助詞の「はへを」に限り歴史的假名遣を踏襲するなどし、従って「音韻主義(現代語音に基づく、完全な表音主義と区別するために以下呼び分ける)」であるとした。このことは金田一京助博士も述べられているが、そのまえに文部省の廣田榮太郞が書いた「現代かなづかい」の説明を紹介すると、
現代かなづかいは、一音一字、一字一音の表音主義を原則とはするが、かなを発音符号として物理的な音声をそのまま写すものではなく、どこまでも正書法として、ことばをかなで書き表わすためのきまりである。したがって、表音主義の立場から見て、そこにはいくつかの例外を認めざるを得ない。それはこれまでの書記習慣と妥協して、旧かなづかいの一部が残存している点である。
歴史的假名遣の書記習慣と妥協する理由は「どこまでも正書法故にいくつかの例外がある」、例外とは憶えねばならぬ書記法があるということである。このことから「現代かなづかい」はなるべく憶えるべき事項を減らし、憶え易くした物といえる(ところでそれが憶え易いか否かの論は該当項目を見よ)。またこれを改良したのが「現代仮名遣い」である(以下必要がなければ「現代仮名遣い」とするが、「現代かなづかい」とする場合は「現代仮名遣い」制定前の類いである)。
現代かなづかいと正書法
「現代かなづかい」論者の中には《「現代かなづかい」は「正字法」であって「正書法」ではない》との論もあったようだが、ここではその別を扱わない。
現代かなづかいが廣田氏の云う「どこまでも正書法」である背景は、曰く「いくつかの例外」則ち表音的ではない部分を妥協せざるを得ないことは、「表音的仮名遣」を理想としてきた表音主義にとっては悩みの種であったが、自身ローマ字論者であった土岐善麿氏は対談で次のように述べている。
これは、あるいは僕が御説明をしておいた方がいいかと思ひます。そしてなほ私の足らないところは、それぞれの方から補足していただくとして《中略》當用漢字なりかなづかひなりに對するいろいろな批判がありますが、そこにはいろんな誤解もあるので、その制定の基本的な考へ方といふものは、結局正書法の決定といふことにあると思ひますが、あれを制定したときには、その點がはつきりしてゐなかつた。現實的にはさういふことになるやうだけれども、正書法といふ基本的な考へ方ははつきりとは出てゐなかつたと私は判斷したわけです。
たとへば「ジヂ」「ズヅ」の問題です。これは必ずしも表音的ではない。その矛盾が非難の對象になるわけです。一口に表音的といつても、その同じ表音的といふものの中にも幅がある。その音の上では同じなのに、書く場合、別〻になつてゐる。どうしてさうなつてゐるかが問題ですが、それはかなづかひに語意識といふ考へを加へてゆけば、現代かなづかひは表音的ではないではないかといふ形の非難なり批判に答へられる。語意識といふものが加はれば説明がつくだらう、といふ工合に私は考へたわけです。そこで正書法といふことをいひ出した。つまりかなづかひの語意識の問題を考へて、正書法といふものへ導いてゆけるだらうといふ工合に私は考へたわけです《後略》 — 季刊文芸誌「聲」第六號(丸善)抜萃
「現代かなづかい」はその策定当初において「正書法」という認識はなかったが、「表音的ではない」という非難があるだろうから《「正書法」では「語意識」があるから》と説明すれば答えられるだろうと、「正書法」という方向性を定めたと土岐氏は述べている。またこの問題は国語審議会に於いて昭和三十一年「正書法について」を発表したとき初めて表立ったという〔同上山本有三氏、白石大二氏(文部省事務官)談〕。「現代かなづかい」参照。
「音韻」の定義
表音文字には別があって、音節文字と音素文字とである。仮名文字は音節文字にあたり、「音韻」の話がでているので掘り下げると、「音韻」とは音韻学上は一般に「音素」の事であり、仮名文字が「音韻」を表す文字(その標識、金田一博士は音標文字とも音韻文字ともしている)であるとするならば、仮名文字が「音節文字」であることから「音節」を「音韻」とした物である。
更に観念と発音とを結びつけてゆくと、喩えば音声学上の「単音」の基準で見ると、「ん」はその次の音素につられて何通りかの変則的な単音[n, m, ŋ, N]をみせ、これだけみれば仮名は一字一音に反している。則ち「表音」を、「単音」を表す文字で綴ることと看做せば、「現代仮名遣い」による仮名文字の正書法は「音韻主義」ではなくなるので、「現代仮名遣い」は「音韻」を「単音」と看做しそれを基準とした「表音主義」の仮名遣ではない。音声学上の「単音」による綴りのみが「表音的」であるというならば、「現代仮名遣い」は「表音主義」ではない(表音記号の定義参照)。
音韻学上の「音素」とは、上述の通り発音に忠実であるのではなくて、「ん」の場合は単音[n, m, ŋ, N]を/N/と統合した一つ物が「音素」である(音素文字と単音文字はこの点で同一にならないが、音素の立て方は学説による所が大きい)。「音節」を「音韻」とすれば、一字一音(=音素、音韻)に反しない。また「音節」とは、音声学上では母音と子音の「単音」の集まりであるが、音韻論上では母音と子音の「音素」が集まりを形成しているとする。
「音韻」という観念は、仮名文字という「音韻」で書き分ける事を仮名遣とするなら、仮名文字の場合「音素」を書き分ける事ができないので「音節」である。則ち「現代仮名遣い」は狭義の「表音主義」でなく広義の「音韻主義」、「観念の表音に基づく仮名遣」である。「音韻」が「音節」であるとしても、上記の様に「音素」を立てるのであれば「音節」は一意となって、従って一字一音に反しないとする。
なお金田一博士は仮名文字を「音韻文字」「音標文字」と、一方で表音記号は「音韻符号」と呼び音韻符号で綴る正字法はないとしているが、「音韻」の定義に若干の混乱が見られる。後者の「音韻符号」は「音韻」の意味が「単音(音声)」を意味しているようだが、前者の「音韻」は「音素」と「音節」を表しているようである。
表音記号の定義
仮名自体が音節文字なのでそもそも単音を完全に表すことができない。なので音声学上では仮名は一字一音ではないが、橋本博士は「音の觀念」を代表する文字で綴られた仮名遣でさえも「表音的假名遣」であると断じており、一方で「現代かなづかい」では金田一博士がこの橋本博士の論の当否については言及をさけている(後述する博士による学的根拠参照)上に「現代かなづかい」は「現代語音に基づく」ため、「現代かなづかい」が「表音的假名遣」であるか言及しかねる所以である。
(5)《前略》表音記號を制定するについては、實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すものや、正しい音の觀念(音韻)を代表するものなど、種々の主義があり、又、ローマ字假名など既成の文字を基礎とするものや、全然新しい符號を工夫するものなど種々の方法があるが、その中、假名に基ゐて國語の音韻を寫す表音記號は、その主義に於ても方法に於ても、表音的假名遣と全然合致するものである《後略》 — 表音的假名遣は假名遣にあらず(橋本進吉/昭和十七年八月)抜萃
猶助詞の「は・へ・を」などは一字一音則に反するが書記習慣と妥協した「例外」の事であって、音韻論とは直接関係がないとみるべきである。これら助詞は「わ・え・お」と(高低アクセントを除けば)同一の音であるから実際には仮名で書き分けることができるが妥協した存在であって、無意識下の「ん」の言い分け読み分けに見られる仮名で書き分けることができない音声学上の「単音」を包括する物を音韻学上で「音素」と定義して「音韻」で書き分けると主張することとは筋が違うからである。仮名参照。
現代仮名遣い総括
以上を踏まえて次の金田一博士の、少し長い引用であるが、学的根拠の冒頭部分を参照されたい。尚すでに一部の論のうち趣旨が近い物が前述してあるので参考のこと。凡そ「表音式の不徹底と正書法」「音韻論」「橋本博士の仮名遣論へ言及」「歴史的假名遣への言及」「現代かなづかいの原理」の順に構成されている。
今回の新かなづかい反対の声を聞いてみると、まず第一に新かなづかいの明らかな誤解から来るものがある。曰わく、新かなづかいは、表音式にすると言って、その実、表音式になってはないではないか。孝行は、コオコオと発音するのに、こうこうと書く、「私は」「私を」「私へ」なども、表音式なら「私わ」「私お」「私え」であるべきである。少しも表音式ではないじゃないか。こう言って、反対される人々のあることである。
これは反対論の一番単純な声である。それぐらいのことを新かなづかいの発案者たちが気がつかないとでも思うものらしい。しかし、これほどの大事を思い立つ当局の人でそんなことぐらいわからないはずが無いではないか。
あえて「現代の音声」と言わずに「現代語音(にもとづく)」と言っているのは、「かなづかい」は発音記号ではなくして正字法だからである。仮名は音韻文字だから一々の仮名は、音韻を代表させるが、一から十まで、決して発音どおりにしようとしてはいない。それは、すべての改革は、急激であってはいけないから。殊に、言語に関したことはでは。なぜなら、言語は、国民全体が毎日関係することであって、決して役所の人たち少数者だけのたまに用いるものではないから。国民の大勢が、すぐついて来れるやうな改革でなければ、改革が企図に終って、実現はされない。実現されるような改革は、無理のない程度に落ち合わなければいけない。いくらよい理想でも、皆がついて来なかったら、その案は机上の空論でしかない。 — 新かなづかい法の学的根拠(金田一京助)
では、わかっていて、そういうことをするのはなぜか。ほかではない。「新かなづかい」は、決して「表音式かなづかい」ではないからである。
その証拠に、今度の新かなづかいの趣意書のどこにも、「表音式にするのだ」とは一言もうたっていない。
「歴史的かなづかいを廃して、表音式かなづかいにするのだ」とは、以前によく言われたことである。明治三十三年度以来、久しくなった声ではある。「音声」と「音韻」との区別がまだはっきりしなかった時代の言い分である。その時代からみると、考え方も言い方も遙かに進んで来て、今は「仮名づかい」と「発音表記」とをはっきり区別するのである。「仮名づかい」は正字法(オーソグラフィ)であり、仮名は音標文字だが、どこの国だって、正字法はあるが、音韻符号をつらねて正字法としている国はない。故橋本進吉博士が「表音式かなづかいは、かなづかいにあらず」と言い切ったのは、著名なことばである。その言葉の当否はとにかくとして、だから、今回どこにも、表音式かなづかいにするのだと言ってはいない。言っているのは「現代かなづかいは、現代語音に基づく」と、あたり前のことを言っているだけである。その意味は、いわゆる歴史的かなづかいは、古代語の語音に基づいている。すなわち、旧かなづかいは、古代語を書いていたものであるが、現代かなづかいは、現代語を書くことにするということである。
「現代かなづかい」を総括すると、橋本博士の示した「音」であるか「語」であるかで書法を選ぶ正書法から、専ら「音韻」に従う正書法になったということである(なお「音」「語」は橋本博士の定義に従い、「音韻」は金田一博士の定義に従うこととする)。そしてその一部の規範には、「現代かなづかい」の策定に拘った廣田氏や金田一博士も述べられているように、「音韻」主義の中に「語」の書法が生かされているのである。またそれを生かす必要性、「語」と妥協した理由・背景は、土岐氏が言及している。
これらの姿勢は「現代仮名遣い」が告示されるに至っても大きく変わる物ではない。「現代仮名遣い」では例外事項が増え、「東(あづま/あずま)」「融通(ゆうづう/ゆうずう)」の両表記が許容されるなど、歴史的假名遣では「づ」である物の一部が「づ」でも許容(或いは妥協)となるなど(「ず」を本則とする点はこれまで通り)、幾らか歴史的假名遣に歩みよった内容になっている。
仮名遣の搖れ
慣習的な「どぜう(どぢやう)」であるとか、誤用の搖れではなくて、正しいとされる仮名遣が時代により異なる点を論じたい。
現代語音に基づく「現代仮名遣い」では、いづれ発音と乖離して、恐らくはまた改めねばならない。表音的仮名遣を森鷗外は「元の木阿彌」と酷評した(假名遣意見)。
一方で「歴史的假名遣」では、研究が進み新たな事実が判明すれば、これを改めることになる。譬えば福田恆存氏の『私の國語敎室』では、「机」は「つくゑ」となっているが、最近になっては「つくえ」が正しいとされる。従来は「ツクヱ」とされたが、平安初期の文献を詳しくしらべるとヤ行のエである「ツクエ」がみられた。ここで「突き+据ゑ」の解釈であった「机」は「突き+枝(エ)」となった。「歴史的假名遣」でも時代により安定な表記であるとは云いがたいのである。
従って仮名遣とは常に修正が加えられる物であって、完全な物ではないと認識すべきである。仮名遣を批判する際には、どちらが完璧かというよりは、お互いの理念・原理の根柢を批判した方がよろしかろう。
仮名遣の比較
纏めるとこのような感じで、その委細は上記に述べたので逐次参照のこと。
\ | 仮名遣 | |
---|---|---|
対象 | 歷史的假名遣 | 現代仮名遣い |
れきしてきかなづかひ | げんだいかなづかい | |
現在の使用状況 | 一般に文語文 | 一般に口語文 |
仮名遣の原理 | 語に從ふ(橋本進吉説) | 現代語音に基づく(金田一京介説) |
従来の書記習慣 | 従来を継承 | 一部を妥協 |
仮名文字の扱い | 従来通り | ゐゑヰヱは不用 |
変体仮名 | 公教育からは排除 | 従来を継承 |
表音的部分 | 「音」のみ許容 | 全体的に敷衍 |
主な修正法 | 古典表記の確認 | 音の観念または語意識の変遷 |
字音 | 字音假名遣踏襲 | 表音的假名遣 |
尚「現代仮名遣い」でよく問題になる「語意識」とは、前述の論を纏めると「歴史的假名遣」の「表語」「表意」の意味であって、「歴史的假名遣」の書記習慣に妥協して「表音」に逆らって「現代仮名遣い」の書記に反映させる基準(例外を認める基準)をいう。例えば前述「あづま/あずま」など。
「送り仮名」もまた、仮名遣を国語表記の規範とするならば、仮名遣の問題の一つである。「送り仮名」は漢文の訓読に際して発生した「捨て假名」がその起源であるが、現代では主に下記の要点を持つ。
- 漢文訓読に於ける「送り仮名」と国語(特に口語文)に於ける「送り仮名法」の関聯。
- 漢文助字(助辞)の扱いなど漢文が有する特有の訓読法の問題。
どれも詰る所は国語の口語文「送り仮名法」に行き着く。
送り仮名の変遷
「送り仮名」では漢文ニ關スル文部省調査報吿(明治四十五年三月)に於て示された「句讀・返點・添假名・讀方法」によって定められてきた。然し「送り仮名法」が変化するに従い、「送り仮名」も変化した。昭和四十八年に内閣告示された「送り仮名法」では、送りがなにある通りだが、従来の法則を書き換えた物であった。「送り仮名」もまた「送り仮名法」の一部規則に準じたが、「送り仮名法」が凡そ徹底的であるのに対して、漢文での「送り仮名」は些か従来の記法もあって、まだ統一されたというわけではない。また誤読を減らすために付けた変化によって、漢字に収まる仮名が変わるなど、問題や課題が無いわけではない。
種々の仮名遣
ある種の単語にはある種の萬葉仮名のみが遣われていて、これを甲と乙に分類した仮名遣。後の仮名文字より多くの音韻を区別した(前述:異論有り)。存続の助動詞「り」の接続は全て命令形であると説明する際に有用であるような物(註:四段活用の命令形と已然形は仮名の上で同形だが、甲乙の上代特殊仮名遣が異なるので、命令形のみに接続していたらしい事がわかるのである)。
語源、文法的整合性、歴史的一貫性を重視する立場の仮名遣のこと。新仮名遣に対して古くから存在する仮名遣という意味で旧仮名遣とも。また、歴史的、語源的、文法的に正しい仮名遣であるという意味で正仮名遣とも。
次の内閣告示および内閣訓令によって示されたものをいう。
- 現代かなづかい(内閣告示第33号。昭和21年11月16日)
- 「現代かなづかい」の実施に関する件(内閣訓令第8号。昭和21年11月16日)
- 現代仮名遣い(内閣告示第1号。昭和61年7月1日)
- 「現代仮名遣い」の実施について(内閣訓令第1号。昭和61年7月1日)
- 表音式仮名遣と同一視されることもある。しかし現代仮名遣いは表音主義を重視してはいるが歴史的假名遣を受け継いでいる部分もあり、純粋な表音式仮名遣ではない(前述)。歴史的假名遣に対して新しく制定された仮名遣という意味で新仮名遣とも。
表音式仮名遣
「仮名遣は発音通りであるべき」とする立場に基づく仮名遣のこと。通常は完全に発音通りに表記しようとする立場だけでなく語源や歴史的な使用実績よりも実際の発音を重視する現代仮名遣いのようなものも含める。歴史的假名遣に対して発音的仮名遣(発音式仮名遣)とも。
- 棒引き仮名遣
その他の区別
- 誤用仮名遣
- 使用例があるものの、語源的、文法的に見た場合には誤っていると考えられる仮名遣のこと。
- 許容仮名遣
- 誤用仮名遣のうち、使用例が多く、歴史的に定着しているために許容されている仮名遣のこと。
何を誤用として許容とするかは微妙な所であるが、「用ゐる」に限れば、「用ふる」など広く遣われ、違和感が少なかったと見られるので、許容されることがある。正しいとされていた物が修正された時も、許容仮名遣に含むことがある(ツクエ/ツクヱなど)。
漢字の字体
漢字の字体は、仮名遣を国語表記の基準とすると国語に溶込んだ漢字はその字体を考慮せねばならないが、「仮名遣」ということで、漢字の字体に関する問題は常用漢字等に譲るとする。
外来語の扱い
「ウヰスキー」「ウヰルス」等の表記を見かけるが、歴史的假名遣の範疇で推定される音韻から宛てられた表記である。現代仮名遣いに於いても「ギリシャ/ギリシア」「パーティ/パーティー」などの長音・拗音の問題が存在する。「現代仮名遣い」が告示された現在では、平成三年に内閣告示された「外来語の表記」が存在するが、現在の所は「現代仮名遣い」程に徹底された物とは云えない。
この問題は表音的部分をどうするかであって、歴史的假名遣で「音」を表す際にも重要である。
関連項目
参考
- 福田恆存『私の國語敎室』(文藝春秋の文春文庫にて復刊、新潮社初版は絶版)
- 現代かなづかいの不合理を批判した本として特に有名。歴史的假名遣を説く。
- 金田一京助『国語の変遷』(創元社より創元文庫、角川書店より角川文庫。いづれも絶版)
- 「新かなづかい法の学的根拠」参照。『日本語の変遷』が講談社学術文庫にある。
- 明治期の文豪による仮名遣に対する意見や、橋本進吉博士の論文を纏めた物。同博士の論文の一部は橋本進吉博士著作集(言葉 言葉 言葉)に纏められている。