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== 著作 ==
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=== 紀行 ===
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* 「青葉の道の記」 - [[天保]]13年(1842年)3月28日[[雑司ヶ谷]]周辺を廻る<ref>{{(追記) Cite (追記ここまで) web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://toshoryo.kunaicho.go.jp/Kotenseki/Detail/31050|title=青葉の道のき|work=書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=[[宮内庁書陵部]]|accessdate=2016年1月30日}}</ref>{{sfn|津本|2013}}。
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* 「たけ狩」 - 嘉永元年(1848年)9月15日[[法蓮村]]で松茸狩を行う<ref>{{(追記) Cite (追記ここまで) web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://toshoryo.kunaicho.go.jp/Kotenseki/Detail/31051|title=たけ狩り|work=書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=[[宮内庁書陵部]]|accessdate=2016年1月30日}}</ref><ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2540353|たけ狩}}</ref>。
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* 「寺めぐり」 - 嘉永元年(1848年)10月奈良の寺社、古墳を廻る<ref>{{(追記) Cite (追記ここまで) web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://toshoryo.kunaicho.go.jp/Kotenseki/Detail/31048|title=寺めくり|work=書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=[[宮内庁書陵部]]|accessdate=2016年1月30日}}</ref>{{sfn|津本|2013}}。
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=== 日記 ===
=== 日記 ===
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=== 回想録 ===
=== 回想録 ===
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* 「笹の一葉」 - [[安政]]3年(1856年)[[島津斉彬]]母[[弥姫]]三十三回忌に池田家出仕時代を回想する<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|926735/28|照国公御母堂賢章院夫人遺芳録}}</ref>。
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* 「ね覚のすさび」 - [[明治]]16年(1883年)80歳となったのを期に人生を回想する<ref>{{(追記) Cite (追記ここまで) web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://toshoryo.kunaicho.go.jp/Kotenseki/Detail/31017|title=ね覚のすさひ (川路高子自伝)|work=書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=[[宮内庁書陵部]]|accessdate=2016年1月30日}}</ref><ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|1920569/263|川路聖謨文書第八 ね覚のすさび}}</ref>。


=== 詠草 ===
=== 詠草 ===
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* 「高子詠草」<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2608458|高子詠草}}</ref>
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* 「詠草」{{sfn|藤實|渋谷|2005|p=262}}
* 「詠草」 弘化3年(1845年)11月{{sfn|藤實|渋谷|2005|p=263}}
* 「詠草」 弘化3年(1845年)11月{{sfn|藤實|渋谷|2005|p=263}}


=== その他 ===
=== その他 ===
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* 「女子の手かゞみ」<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2540349|女子の手かゝみ}}</ref>



2023年11月20日 (月) 22:40時点における最新版

川路 高子
ペンネーム 松操
誕生 佐登
文化元年(1804年)
武蔵国 江戸
死没 明治17年(1884年)10月12日)
東京府 日本橋区 日本橋蛎殻町
墓地 池之端大正寺
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
活動期間 幕末
ジャンル 日記、紀行、和歌
代表作 『川路高子日記』『上総日記』
配偶者 川路聖謨
子供 継子:川路彰常
親族 義弟:井上清直、甥:大越成徳、孫:川路寛堂、曾孫:川路柳虹
ウィキポータル 文学
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川路 高子(かわじ たかこ、文化元年(1804年) - 明治17年(1884年)10月12日)は江戸幕府 外国奉行 川路聖謨の継室。諸大名屋敷に宮仕した後、天保9年(1838年)勘定吟味役川路聖謨に嫁ぎ、奈良大坂へ赴任、戊辰戦争中聖謨に自決されつつ下総国平沢村へ疎開し、江戸へ帰り没した。

生涯

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宮仕

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文化元年(1804年)、江戸幕府大工頭大越孫兵衛喬久の次女として生まれた[1] 。15歳で紀伊徳川家屋敷に奉公し[1] 徳川治紀娘で鳥取藩 池田治道正室丞姫に8年間仕え、姫の死去により退職した[2]

天保4年(1833年)徳川家斉二十五女末姫広島藩浅野斉粛に嫁いだ際、再び出仕した[1]

川路家での生活

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天保9年(1838年)4月29日、勘定吟味役 川路聖謨に4人目の妻として嫁ぎ、聖謨の養父母、実母および先妻の2男2女と同居した[3] 弘化元年(1844年)聖謨が佐渡奉行に赴任した時は江戸で留守を守ったが、弘化3年(1846年)奈良奉行赴任時には次男市三郎、聖謨養父母と奈良に移った。

嘉永4年(1851年)6月10日聖謨は江戸に召還されたが、高子は奈良に残り、日記を書き送って近況を報告し合った[4] 。7月2日聖謨から大坂町奉行赴任を聞き[5] 、7月26日大坂東町奉行屋敷に移った[6]

江戸に戻り聖謨が勘定奉行となると、小石川に屋敷を賜った[7] 。聖謨が勘定奉行、外国奉行へと異例の出世を遂げる中、家事一切を引き受け、諸大名からの贈答品の応対を切り盛りした[8] 。また、この頃前田夏蔭に和歌を学んでいる[9]

安政6年(1859年)8月、聖謨が政争に敗れて蟄居を命じられ、小石川屋敷を引き払い、3分の1ほどの広さの番町屋敷に移った[7]

上総への疎開

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慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発し、新政府軍が江戸に向け進軍する中、継子種倫の養子先原田市三郎の知行地上総国 山辺郡平沢村(千葉県 大網白里市小中)に家族を避難させた[10] 。3月15日、聖謨が自決を果たすと、大正寺で葬儀を取り仕切った後、初七日の21日に剃髪し[11] 、夫、幕府に対し末永く操を守る意を込めて松操と号した[12]

22日夜、小網町より舟で下総国浜村に逃れ、上総国平沢村の名主利右衛門宅に身を寄せた[13]

晩年

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大正寺の聖謨・さと子墓

慶応4年(1868年)6月7日、江戸の情勢の安定を見計らい、番町の本邸に帰った[8] 。嫡子川路寛堂平民となり番町の屋敷を引き払うと、高子は郊外の根岸に閑居したが、不便なため蛎殻町に移り、ここに落ち着いた[7]

明治17年(1884年)10月12日、胃癌のため死去し[14] 池之端大正寺聖謨墓の隣に葬られた[15] 。辞世は「いと長く思ひしかども限りある我が世の夢も今ぞさめぬる。」[16] 法号は誠意院殿松操日修大姉[15]

人物

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更年期障害のような吐き気を伴う持病があり、聖謨に「げろげろ」と呼ばれていた[14] 。若年より病弱で、医者にも50までは生きられないだろうと言われていたという[7]

美人だったとされ、嘉永6年(1853年)に聖謨が長崎エフィム・プチャーチンと会談した際、「左衛門尉妻は江戸にて一二を争ふ美人也。夫(それ)を置て来りたる故か、おり/\おもひ出し候。忘るゝ法はあるまじきや。」[17] と妻を自慢し、場を和ませた[18]

文才にも優れ、義弟井上清直は高子の日記を読み、「御姉さまの文、土佐日記のごとし。」[19] と賞賛した。また、高子の兄が酔った際高子を紫式部松浦佐用姫に例えたところ、聖謨が「紫式部・松浦佐用姫ならで、紫秩父・杉浦佐用姫位ならむ。」と応えた。これを聞いた高子本人は「されど夫(それ)もまだ過ぎたらむ。紫木綿、雪駄裏皮姫位ならむ。いと顔の皮厚姫と人や笑はむ。」と更に謙遜している[20] [9]

著作

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紀行

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  • 「青葉の道の記」 - 天保13年(1842年)3月28日雑司ヶ谷周辺を廻る[21] [22]
  • 「よしの行記」 - 嘉永元年(1848年)3月12日から16日まで吉野を訪れる[23] [24] [22]
  • 「たけ狩」 - 嘉永元年(1848年)9月15日法蓮村で松茸狩を行う[25] [26]
  • 「寺めぐり」 - 嘉永元年(1848年)10月奈良の寺社、古墳を廻る[27] [22]
  • 「ふるの道くさ」 - 嘉永2年(1849年)4月柿本寺等を廻る[28] [29]

日記

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  • 「日記」 - 弘化2年(1845年)2月18日から24日まで聖謨多摩川方面巡見中の留守日記[30]
  • 「川路高子日記」 - 嘉永4年(1851年)6月から9月まで聖謨江戸赴任中、奈良での留守日記[31] [32]
  • 「上総日記」 - 慶応4年(1868年)3月15日から6月7日まで平沢村に疎開した日記[33]

回想録

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  • 「笹の一葉」 - 安政3年(1856年)島津斉彬弥姫三十三回忌に池田家出仕時代を回想する[34]
  • 「ね覚のすさび」 - 明治16年(1883年)80歳となったのを期に人生を回想する[35] [36]

詠草

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  • 「高子詠草」[37]
  • 「川路聖謨夫人詠草」[38]
  • 「花弐百首」[39] [40]
  • 「詠草」[41]
  • 「詠草」 弘化3年(1845年)11月[30]

その他

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脚注

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  1. ^ a b c 氏家 2003, p. 225.
  2. ^ 井上 2005, p. 192.
  3. ^ 揖斐他 2010, p. 57.
  4. ^ 氏家 2003, p. 228.
  5. ^ 氏家 2003, p. 235.
  6. ^ 氏家 2003, p. 241.
  7. ^ a b c d 『ね覚のすさび』
  8. ^ a b 井上 2005, p. 193.
  9. ^ a b 揖斐他 2010, p. 60.
  10. ^ 井上 2005, p. 195.
  11. ^ 『上総日記』3月21日条
  12. ^ 井上 2005, p. 194.
  13. ^ 『上総日記』3月22日条
  14. ^ a b 氏家 2003, p. 226.
  15. ^ a b 井上 2005, p. 198.
  16. ^ 氏家 2004, p. 226.
  17. ^ 『長崎日記』嘉永6年12月17日条
  18. ^ 揖斐他 2010, pp. 59–60.
  19. ^ 『浪花日記』7月12日条
  20. ^ 『川路高子日記』9月5日条
  21. ^ "青葉の道のき". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  22. ^ a b c 津本 2013.
  23. ^ "よしの行記 (日記抜萃)". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  24. ^ 川路聖謨文書第八 よしの行記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  25. ^ "たけ狩り". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  26. ^ たけ狩』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  27. ^ "寺めくり". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  28. ^ "ふるの道くさ". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  29. ^ 津本 2015.
  30. ^ a b 藤實 & 渋谷 2005, p. 263.
  31. ^ 川路高子日記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  32. ^ 揖斐他 2010.
  33. ^ 藤實 & 渋谷 2005.
  34. ^ 照国公御母堂賢章院夫人遺芳録』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  35. ^ "ね覚のすさひ (川路高子自伝)". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  36. ^ 川路聖謨文書第八 ね覚のすさび』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  37. ^ 高子詠草』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  38. ^ "川路聖謨夫人詠草". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  39. ^ 花弐百首』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  40. ^ "花弐百首". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  41. ^ 藤實 & 渋谷 2005, p. 262.
  42. ^ "遊絲". 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁書陵部. 2016年1月30日閲覧。
  43. ^ 女子の手かゝみ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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