「宮田文子」の版間の差分
2023年9月16日 (土) 14:30時点における版
宮田文子(みやた ふみこ、1888年 7月21日 - 1966年 6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。
「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。
略歴
愛媛県 松山市出身。伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎の一女として生まれる。京都府立第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)卒業後、結婚して3児をもうけるが離婚。「化け込み」と言われる潜入ルポを書く新聞記者として活動する。退社後、禅寺で知り合った男性と2度目の結婚。生活苦と嫉妬深い夫から逃れるために『上海日報』の記者となり上海へ行く。後に離婚、帰国。
内藤千代子の引き合わせにより武林無想庵と出会い、1920年に帝国ホテルにて挙式し3度目の結婚。パリへ渡り、長女イヴォンヌ(日本名は五百子)を出産。文子はイヴォンヌを溺愛し、娘に着せるために子供服や帽子作りを習得する。1年後に帰国し、洋裁の技術を買われて資生堂の子供服部門の主任に抜擢される。月給300円という破格の待遇だったが、1年半後に退社し帽子制作に没頭、日本各地で展示をする。洋裁学校も始めたが自宅を関東大震災で焼失し、再び一家でパリへ渡る。
パリでは現地在住の日本人男性の協力を得て日本料理店を始めるが、ほどなく閉店。そこで日本舞踊を習い、上流階級の宴席や劇場などで披露し大金を稼ぐ。しかし協力を得ていた男性と口論になり顔を銃で撃たれる。弾丸は口内で止まり、文子は一命を取り留めるが、国内外でスキャンダラスに取り上げられ、この頃から『妖婦』と呼ばれることとなる。
夢想庵の資金も尽き、文子は日本での資金調達をもくろみ単身帰国する。ゼネラルモーターズに話をもちかけ、新車の黄金のシボレーで大阪から東京を移動し、旅費を節約を兼ねて車と自分の宣伝を行う。また、女優として映画に出演し資金を調達し、パリに戻る。
依然として経済的な困窮が続く中、エチオピアの皇太子の結婚話を聞きつけた文子は、新聞の特派員として取材に行き報酬を得る作戦を考える。そこでエチオピア行きの船が出るアントワープへ行き、貿易商の宮田耕三を訪ねたところ、二人は恋に落ちる。そこで文子は夢想庵と離婚し、再婚。文子46歳、耕三40歳だった。
金銭的な心配がなくなった文子は、日本と海外を往復しながら洋裁やレストラン経営に精力的に取り組み、またエジプトやコンゴに魅了され本も執筆した。1965年、イヴォンヌがパリ(ブリュッセルの説もあり)のアパートで急死する。44歳だった。翌年の1966年、文子も脳出血で没した。
子孫
イヴォンヌは辻まこととの間に3児をもうけている。長女は早逝。1940年生まれの次女は竹久夢二の次男の養女となり、竹久野生(Nobu Takehisa)の名で画家としてコロンビアにて活動している。三女で1944年生まれの武林維生(いぶ)は宝塚歌劇団に在籍した。
著作
なでし子名義
- 『やとな物語』明治出版協会、1915年
- 『御目見得廻り』須原啓興社、1916年
中平文子名義
- 『女のくせに』やなぎや書房、1916年
武林文子名義
- 『ゲシュタポ : 世紀の野獣と闘った猶太人秘話』酣燈社、1950年
- 『この女を見よ』コスモポリタン社、1952年
宮田文子名義
- 『スカラベ ツタンカアモンの宝庫』中央公論社、1960年
- 『七十三歳の青春』中央公論社、1962年
- 『刺青と割礼と食人種の国 黒い秘境コンゴ』講談社、1966年
- 『わたしの白書 幸福な妖婦の告白』講談社、1966年
参考文献
- 『あなたみたいな明治の女』群ようこ 朝日文庫、2002年
- 『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』平山亜佐子 左右社、2023年