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[[堀河天皇|堀河朝]]で[[文章生]]となり、[[蔵人|蔵人所雑色]]を経て、[[皇太子|春宮]]・宗仁親王の春宮蔵人を務めた。
[[堀河天皇|堀河朝]]で[[文章生]]となり、[[蔵人|蔵人所雑色]]を経て、[[皇太子|春宮]]・宗仁親王の春宮蔵人を務めた。


[[嘉承]]2年([[1107年]])宗仁親王が[[践祚]]([[鳥羽天皇]])すると、有成は[[六位蔵人]]となり引き続き身近に仕え、嘉承3年([[1108年]])[[式部省|式部少丞]]を兼ねる。[[天仁]]2年([[1109年]])[[巡爵]]により[[従五位|従五位下]]に叙せられ、[[天永]]2年([[1111年]])[[和泉国#国司|和泉守]]に任官して[[受領]]となった。
[[嘉承]]2年([[1107年]])宗仁親王が[[践祚]]([[鳥羽天皇]])すると、有成は[[六位蔵人]]となり引き続き身近に仕え、嘉承3年([[1108年]])[[式部省|式部少丞]]を兼ねる。[[天仁]]2年([[1109年]])[[巡爵]]により[[従五位|従五位下]]に叙せられ(追記) るが、父祖のように文官には就かず (追記ここまで)、[[天永]]2年([[1111年]])[[和泉国#国司|和泉守]]に任官して[[受領]]となった。


[[保安]]2年([[1121年]])[[皇后宮職|皇后宮大進]]に任ぜられると、その後20年ほどに亘って[[皇后]]・[[令子内親王]]に仕える。[[鳥羽天皇|鳥羽院政期]]後期の[[仁平]]元年([[1151年]])[[日向国#国司|日向守]]として約40年ぶりに受領に遷る。[[久寿]]2年([[1155年]])日向守に重任されるが、[[後白河天皇|後白河院政期]]初頭の[[保元]]3年([[1158年]])日向守を辞している。
[[保安]]2年([[1121年]])[[皇后宮職|皇后宮大進]]に任ぜられると、その後20年ほどに亘って[[皇后]]・[[令子内親王]]に仕える。[[鳥羽天皇|鳥羽院政期]]後期の[[仁平]]元年([[1151年]])[[日向国#国司|日向守]]として約40年ぶりに受領に遷る。[[久寿]]2年([[1155年]])日向守に重任されるが、[[後白河天皇|後白河院政期]]初頭の[[保元]]3年([[1158年]])日向守を辞している。


== 人物 ==
== 人物 ==
日記に『有成記』がある。[[元永]]2年([[1119年]])顕仁親王(のち[[崇徳天皇]])の出生に際して、有成(削除) が (削除ここまで)[[鳴弦]]の役を奉仕したことから『有成記』の逸文が『[[御産部類記]]』に残っている<ref>[https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/25/pub_shiryo-03-22/ 『東京大学史料編纂所報』第25号 p.77]</ref>。
日記に『有成記』がある。[[元永]]2年([[1119年]])顕仁親王(のち[[崇徳天皇]])の出生に際して、有成(追記) は (追記ここまで)[[鳴弦]]の役を奉仕したことから(追記) 、 (追記ここまで)『有成記』の逸文が『[[御産部類記]]』に残っている<ref>[https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/25/pub_shiryo-03-22/ 『東京大学史料編纂所報』第25号 p.77]</ref>。


== 官歴 ==
== 官歴 ==

2023年8月15日 (火) 04:07時点における最新版

藤原 有成(ふじわら の ありなり、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族藤原北家 真夏流式部大輔藤原敦宗の子。官位従四位下日向守

経歴

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堀河朝文章生となり、蔵人所雑色を経て、春宮・宗仁親王の春宮蔵人を務めた。

嘉承2年(1107年)宗仁親王が践祚(鳥羽天皇)すると、有成は六位蔵人となり引き続き身近に仕え、嘉承3年(1108年)式部少丞を兼ねる。天仁2年(1109年)巡爵により従五位下に叙せられるが、父祖のように文官には就かず、天永2年(1111年)和泉守に任官して受領となった。

保安2年(1121年)皇后宮大進に任ぜられると、その後20年ほどに亘って皇后令子内親王に仕える。鳥羽院政期後期の仁平元年(1151年)日向守として約40年ぶりに受領に遷る。久寿2年(1155年)日向守に重任されるが、後白河院政期初頭の保元3年(1158年)日向守を辞している。

人物

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日記に『有成記』がある。元永2年(1119年)顕仁親王(のち崇徳天皇)の出生に際して、有成は鳴弦の役を奉仕したことから、『有成記』の逸文が『御産部類記』に残っている[1]

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原敦宗
  • 母:藤原資宗の娘
  • 妻:源俊信の娘
    • 男子:藤原隆業
    • 男子:藤原政業
    • 男子:藤原範業
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原資家
    • 男子:清豪
    • 男子:静然
    • 男子:寛然
  • 養子女
    • 男子:藤原定資

脚注

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  1. ^ 『東京大学史料編纂所報』第25号 p.77
  2. ^ 『御産部類記(図書寮叢刊)』1-94
  3. ^ a b c 『中右記』
  4. ^ 『大間成文抄』第4
  5. ^ 『大記』
  6. ^ a b 『国司補任』
  7. ^ 『仙洞御移徙部類記(図書寮叢刊)』2-382
  8. ^ 『重憲記』
  9. ^ 『仙洞御移徙部類記(図書寮叢刊)』2-399
  10. ^ 『台記』
  11. ^ 『為親記』
  12. ^ 『山槐記』

参考文献

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