「ジョージ・アリヨシ」の版間の差分
2023年6月26日 (月) 10:14時点における版
ジョージ・アリヨシ George Ariyoshi | |
---|---|
2011年 | |
生年月日 | (1926年03月12日) 1926年 3月12日(98歳) |
出生地 |
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ハワイ準州ホノルル |
出身校 |
ハワイ大学マノア校 ミシガン州立大学 ミシガン大学アナーバー校 |
所属政党 | 民主党 |
称号 |
文学士(ミシガン州立大学) 法務博士(ミシガン大学アナーバー校) |
配偶者 | ジーン・ミヤ・ハヤシ |
子女 | 3人 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1974年 12月2日 - 1986年 12月1日 |
副知事 |
ネルソン・ドイ ジーン・キング ジョン・ワイヘエ |
在任期間 | 1970年12月2日 - 1974年12月2日 |
州知事 | ジョン・アンソニー・バーンズ |
テンプレートを表示 |
ジョージ・リョーイチ・アリヨシ(George Ryoichi Ariyoshi、ジョージ・良一・有吉[1] [2] 、1926年 3月12日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。
民主党員である。ジョン・アンソニー・バーンズ州知事の後任として、1974年から1986年にかけて3代目ハワイ州知事を務めた。日系アメリカ人として、またアジア系アメリカ人として初めて州知事となった人物である。現在では、ハワイ州民主党の長老の1人とされている。
経歴
1926年3月12日にハワイ準州オアフ島 ホノルルに誕生する。福岡県出身で、力士を辞めた後に貨物船の船員となり、1919年に寄港したハワイを気に入りそのまま定住した父と、熊本県出身の母の元に生まれる。両親は豆腐屋経営を経て、クリーニング店を立ち上げ生計を立てた。幼少期に軽い言語障害を患う。1944年にマッキンリー高校を卒業後、陸軍情報部日本語学校に入学し、廃墟となった東京でGHQの通訳として勤務した。帰国後はハワイ大学マノア校を経てミシガン州立大学に編入学し、1949年に学士号を取得、1952年にはミシガン大学 法科大学院において、法務博士号も取得した。
大学卒業後は、ハワイに戻り弁護士事務所に入所したが、1954年9月に民主党ハワイ州代表(当時)だったジョン・アンソニー・バーンズからの打診により、州下院議員選挙に出馬し当選する。その後は、1958年に州上院議員に当選。翌1959年にハワイが州に昇格した後も州上院議員に選出される。州上院議員在任中の1970年に、アリヨシを後継者にすることを見据えていたバーンズ知事の依頼により、副知事に就任し、1973年10月にバーンズが病に倒れた際は、アリヨシが知事代理としての役割を務めた。
その後は、1974年・1978年・1982年に亘って3選を果たし、退任後は複数の会社や非営利団体で活躍した。
私生活では、1955年にホノルルでジーン・ミヤ・ハヤシと結婚し、2男1女をもうけた。
州知事職以外にも、ハワイ弁護士会の理事長や、ファースト・ハワイアン・バンクやホノルル・ガス社の取締役などを務めていたが、知事を退任した直後の1987年に、日本への旅行から戻った際に、30,000ドル以上に相当する宝石に関する申告の不備が見つかったため、ホノルル国際空港の税関において足止めを受け、11,389ドルの罰金を支払った。これを受け、アリヨシは自らの不手際の責任を取る形で、ファースト・ハワイアン・バンクの取締役を辞した。
著書の訳
- 『おかげさまで―With Obligation to All アメリカ最初の日系人知事 ハワイ州元知事ジョージ・アリヨシ自伝』
- 飯野正子監修、アーバン・コネクションズ、2010年。ISBN 4904486129
脚注
外部リンク
- 『私の哲学』 第85回 ジョージ・アリヨシ ハワイ州元知事
- 【アーカイブ】元ハワイ州知事の日系人2世ジョージ・アリヨシさん - YouTube(朝日新聞社提供、2018年12月5日公開)
準州知事 (1898年-1941年) | ||
---|---|---|
軍政長官 (1941年-1944年) | ||
準州知事 (1944年-1959年) | ||
州知事 (1959年以降) |
この項目は、アメリカ合衆国 ハワイ州に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Pアメリカ合衆国/PJハワイ)。
この項目は、アメリカ合衆国の政治家に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/P:政治学/P:アメリカ合衆国/PJアメリカ合衆国の政治家)。