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[[大和国]][[高取町|高取]]に[[高取藩]]士尾関文左衛門(雅幸)の2男として生まれる。兄に[[尾関弥四郎]]がいる<ref name="nara" />。
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[[文久]]3年([[1863年]])頃に新選組の前身である[[壬生浪士|壬生浪士組]]に入隊<ref name="nara">{{Cite web|url=https://www.library.pref.nara.jp/sites/default/files/001_s.pdf|title=維新前夜 〜佐幕か倒幕か〜|publisher=奈良県立図書館|date=|accessdate=2022年11月25日}}</ref>。旗役として行軍の先頭(追記) を (追記ここまで)任された<ref name="nara" />。[[八月十八日の政変]]に参加。[[池田屋事件]]には参加しなかった。[[近藤勇]]に反発した[[永倉新八]]、[[原田左之助]]、[[斎藤一]]、[[島田魁]]、[[葛山武八郎]]とともに建白書を提出している。[[鳥羽・伏見の戦い]]で敗れ、[[江戸]]へ帰還し、[[土方歳三]]、島田魁、[[相馬主計]]らとともに行動。[[会津戦争]]では歩兵指図役、[[箱館戦争]]では第二分隊指図役を務めた<ref name="nara" />。戦後、高取藩預かりとなり、1870年(明治3年)に赦免された後は尾関薫と改名した<ref name="nara" />。
明治25年(1892年)2月28日に故郷の[[奈良県]][[高取町]]で死去。享年49。墓は[[光雲寺 (奈良県高取町)|光雲寺]]にある。
明治25年(1892年)2月28日に故郷の[[奈良県]][[高取町]]で死去。享年49。墓は[[光雲寺 (奈良県高取町)|光雲寺]]にある。
2023年6月15日 (木) 13:20時点における版
尾関 雅次郎(おぜき まさじろう、天保15年(1844年) - 明治25年(1892年)2月28日)は、新選組隊士。調役兼監察。後に泉と改名する。
経歴
大和国 高取に高取藩士尾関文左衛門(雅幸)の2男として生まれる。兄に尾関弥四郎がいる[1] 。
文久3年(1863年)頃に新選組の前身である壬生浪士組に入隊[1] 。旗役として行軍の先頭を任された[1] 。八月十八日の政変に参加。池田屋事件には参加しなかった。近藤勇に反発した永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、葛山武八郎とともに建白書を提出している。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸へ帰還し、土方歳三、島田魁、相馬主計らとともに行動。会津戦争では歩兵指図役、箱館戦争では第二分隊指図役を務めた[1] 。戦後、高取藩預かりとなり、1870年(明治3年)に赦免された後は尾関薫と改名した[1] 。
明治25年(1892年)2月28日に故郷の奈良県 高取町で死去。享年49。墓は光雲寺にある。