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父隆実が早世したため、祖父[[四条隆顕|隆顕]]に養育される。[[後醍醐天皇]]の代に[[中納言|権中納言]]・[[検非違使|検非違使別当]]に任じられる。[[元弘]]2年([[1332年]])の[[元弘の乱]]においては子の[[四条隆量 (南北朝時代)|隆量]]・[[四条隆貞|隆貞]]と共に天皇方として参加する。だが、[[鎌倉幕府]]軍の猛攻を受けて[[笠置山 (京都府)|笠置山]]は落城して天皇と隆量が捕らえられてしまう(『[[尊卑分脈]]』によれば、隆量は捕縛の後[[佐々木氏]]にその身柄を預けられて、翌年誅殺されたとある)。幸い幕府軍の追跡を逃れた隆資は[[護良親王]]・[[楠木正成]]を頼るが、幕府軍の攻撃にあって敗れて再度[[紀伊国]]に落ち延びて出家した。
父隆実が早世したため、祖父[[四条隆顕|隆顕]]に養育される。[[後醍醐天皇]]の代に[[中納言|権中納言]]・[[検非違使|検非違使別当]]に任じられる。[[元弘]]2年([[1332年]])の[[元弘の乱]]においては子の[[四条隆量 (南北朝時代)|隆量]]・[[四条隆貞|隆貞]]と共に天皇方として参加する。だが、[[鎌倉幕府]]軍の猛攻を受けて[[笠置山 (京都府)|笠置山]]は落城して天皇と隆量が捕らえられてしまう(『[[尊卑分脈]]』によれば、隆量は捕縛の後[[佐々木氏]]にその身柄を預けられて、翌年誅殺されたとある)。幸い幕府軍の追跡を逃れた隆資は[[護良親王]]・[[楠木正成]]を頼るが、幕府軍の攻撃にあって敗れて再度[[紀伊国]]に落ち延びて出家した。


元弘(削除) 2 (削除ここまで)年([[1333年]])に幕府が滅亡して後醍醐天皇が帰京し、[[建武の新政]]を始めると隆資も還俗して[[朝廷]]に復帰した。だが、一度苦境に立つと出家し、挽回すると還俗するという隆資の行動に対して[[仏教]]を愚弄しているという批判が浴びせられた。[[二条河原の落書]]において「還俗」が批判に挙げられたのは隆資の事を念頭に置いたものであるとも言われている。また、次男の[[四条隆貞|隆貞]]が護良親王の側近であったため、天皇と護良の対立が表面化すると政権内でも微妙な立場となったらしく、[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])2月に権中納言の職を辞している。同年10月に護良親王は捕えられて失脚し、隆貞もまた同年12月に討ち取られた(『尊卑分脈』)。
元弘(追記) 3 (追記ここまで)年([[1333年]])に幕府が滅亡して後醍醐天皇が帰京し、[[建武の新政]]を始めると隆資も還俗して[[朝廷]]に復帰した。だが、一度苦境に立つと出家し、挽回すると還俗するという隆資の行動に対して[[仏教]]を愚弄しているという批判が浴びせられた。[[二条河原の落書]]において「還俗」が批判に挙げられたのは隆資の事を念頭に置いたものであるとも言われている。また、次男の[[四条隆貞|隆貞]]が護良親王の側近であったため、天皇と護良の対立が表面化すると政権内でも微妙な立場となったらしく、[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])2月に権中納言の職を辞している。同年10月に護良親王は捕えられて失脚し、隆貞もまた同年12月に討ち取られた(『尊卑分脈』)。


建武3年([[1336年]])、楠木正成を倒した[[足利尊氏]]が[[京都]]を占領すると、隆資は郊外の[[男山]]に籠もって[[高師直]]軍を破る。だが、後醍醐天皇が尊氏によって幽閉されたために再度紀伊に逃れた。やがて、後醍醐天皇が[[吉野]]に入った事を知ると吉野にて天皇と合流する。
建武3年([[1336年]])、楠木正成を倒した[[足利尊氏]]が[[京都]]を占領すると、隆資は郊外の[[男山]]に籠もって[[高師直]]軍を破る。だが、後醍醐天皇が尊氏によって幽閉されたために再度紀伊に逃れた。やがて、後醍醐天皇が[[吉野]]に入った事を知ると吉野にて天皇と合流する。

2023年6月13日 (火) 00:12時点における版

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(2016年11月)
 
四条隆資
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応5年(1292年)
死没 正平7年/観応3年5月10日(1352年 6月22日)
官位 従一位大納言 左大臣
主君 後醍醐天皇後村上天皇
氏族 四条家
父母 父:四条隆実、養父:四条隆顕
隆量隆貞隆俊 有資
西園寺実俊正室、少納言内侍[1]
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四条 隆資(しじょう たかすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿四条隆実の子。官位従一位大納言 左大臣南朝の実務における中心人物であり、最後は後村上天皇を守るために自ら足利軍と戦って戦死した。

経歴

父隆実が早世したため、祖父隆顕に養育される。後醍醐天皇の代に権中納言検非違使別当に任じられる。元弘2年(1332年)の元弘の乱においては子の隆量隆貞と共に天皇方として参加する。だが、鎌倉幕府軍の猛攻を受けて笠置山は落城して天皇と隆量が捕らえられてしまう(『尊卑分脈』によれば、隆量は捕縛の後佐々木氏にその身柄を預けられて、翌年誅殺されたとある)。幸い幕府軍の追跡を逃れた隆資は護良親王楠木正成を頼るが、幕府軍の攻撃にあって敗れて再度紀伊国に落ち延びて出家した。

元弘3年(1333年)に幕府が滅亡して後醍醐天皇が帰京し、建武の新政を始めると隆資も還俗して朝廷に復帰した。だが、一度苦境に立つと出家し、挽回すると還俗するという隆資の行動に対して仏教を愚弄しているという批判が浴びせられた。二条河原の落書において「還俗」が批判に挙げられたのは隆資の事を念頭に置いたものであるとも言われている。また、次男の隆貞が護良親王の側近であったため、天皇と護良の対立が表面化すると政権内でも微妙な立場となったらしく、建武元年(1334年)2月に権中納言の職を辞している。同年10月に護良親王は捕えられて失脚し、隆貞もまた同年12月に討ち取られた(『尊卑分脈』)。

建武3年(1336年)、楠木正成を倒した足利尊氏京都を占領すると、隆資は郊外の男山に籠もって高師直軍を破る。だが、後醍醐天皇が尊氏によって幽閉されたために再度紀伊に逃れた。やがて、後醍醐天皇が吉野に入った事を知ると吉野にて天皇と合流する。

延元3年(1338年)に後村上天皇が即位すると、近衛経忠洞院実世と共に南朝の政務を主導することとなる。その頃、北陸における戦いで軍に敗れて吉野に落ち延びた脇屋義助に対して後村上天皇が慰労して褒賞を出すことを決めた際に洞院実世が「敗軍の将に恩賞を出すと言うのは富士川の戦いで敗れた平維盛以来である」と反対意見を述べた。だが、隆資は「義助は遠い北国で孤軍奮戦しながらも十分な支援を受けられなかったから敗れたのであり、その責任は支援を与えなかったここにいる公卿達にもある。(十分な支援を受けながら戦わずに逃げ帰った)維盛と同一に扱うのはおかしい」と反論して、天皇に忠節を尽くしている武士達を蔑視する公卿達の振る舞いを批判し、天皇の指示通りに褒賞を出させた[2]

正平3年(1348年)、北畠親房楠木正行と連携して四條畷の戦いに臨んだ。公卿ながら武士に対しても公平な隆資の姿勢を慕う武士達の奮戦はあったものの、足利軍の圧倒的な兵力の前に惨敗した。だが、後村上天皇は隆資を慰労して従一位・大納言に任じた。

正平6年(1351年)、足利尊氏とその弟・直義との確執が深刻となると、尊氏は一時南朝側に降って直義討伐のために鎌倉に出陣した。この隙を突いて翌正平7年(1352年)に南朝軍は京都を占領した。後は男山の仮御所にいる後村上天皇を京都に迎えるだけとなったが、その年の3月には尊氏の嫡男・義詮の反撃によって南朝軍は京都を撤退、更に5月には後村上天皇がいる男山の仮御所が包囲された。5月10日、天皇は北畠顕能名和長重に護られて男山を脱出する途中に足利軍と遭遇、殿(しんがり)を務めた隆資は奮戦空しく討ち死にした(男山の戦い)。

後を継いだ隆俊は父同様に南朝に仕え重きをなしたが、文中2年/応安6年(1373年)に北朝軍に敗れて戦死。隆資の他の息子らも隆俊に先んじて死去しているか消息不明で、隆資流の四条家はここに断絶したとみられる。

一説には隆資を『増鏡』の著者とする説もあるが、少数説に留まっている。

系譜

脚注

  1. ^ 後醍醐天皇後宮
  2. ^ 『太平記』第23巻「将を立つる兵法の事」

登場作品

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