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「貧窮問答歌」の版間の差分

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『'''貧窮問答歌'''』[[山上憶良]](削除) が作成 (削除ここまで)
『'''貧窮問答歌'''』(追記) (ひんきゅうもんどうか、びんぐうもんどうか)とは (追記ここまで)[[山上憶良]](追記) による[[和歌]]。 (追記ここまで)


== 概要 ==
== 概要 ==
(追記) 『[[万葉集]]』巻五に載録されている(旧国歌大系番号では892・893)。[[律令]]体制下の[[公民]]の貧窮ぶりと[[里長]]による苛酷な税の取り立ての様子を写実的に歌った歌で、[[長歌]]とその[[反歌]]である[[短歌]]それぞれ一首ずつより成る。成立年は (追記ここまで)憶良が[[筑前守]]に在任していた[[天平]]3年([[731年]])から[[国司]]の任期を終えて筑前国から帰京した天平5年([[733年]])頃にかけてとされる(ちなみに憶良は帰京後まもなく没したと推測されている)。
『[[万葉集]]』に記載。奈良時代の農民の苦労をよんだ詩。


題である『貧窮問答歌』の意味については近年までは貧者が更にそれよりも貧しい窮者にその窮乏を問うものであるというのが定説であったが、現在では貧者に対する問答の歌と解して役人が貧者を尋ねているという説が有力視されている<ref>『かぜまじり...』([[林巨樹]]・[[安藤千鶴子]]編「古語林」所収)1997</ref>。
☛[[長歌]]とその[[反歌]]である[[短歌]]それぞれ一首ずつより成る


古く[[土屋文明]]が、オリジナルなリアリズム詩ではなく[[陶淵明]]など漢詩の模倣、換骨奪胎であると指摘、これに対して漢文学者からの反論などがある。<ref>上田武,「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004497082 『貧窮問答歌』における中国文学の影響について]」『学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学紀要』 2巻 p.11-19, 1993年03月20日, {{naid|110004497082}}</ref>
(削除) ☛ (削除ここまで)憶良が[[筑前守]]に在任していた[[天平]]3年([[731年]])から[[国司]]の任期を終えて筑前国から帰京した天平5年([[733年]])頃にかけてとされる(ちなみに憶良は帰京後まもなく没したと推測されている)。

☛現在では貧者に対する問答の歌と解して役人が貧者を尋ねているという説がある。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2023年5月4日 (木) 03:02時点における最新版

貧窮問答歌』(ひんきゅうもんどうか、びんぐうもんどうか)とは山上憶良による和歌

概要

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万葉集』巻五に載録されている(旧国歌大系番号では892・893)。律令体制下の公民の貧窮ぶりと里長による苛酷な税の取り立ての様子を写実的に歌った歌で、長歌とその反歌である短歌それぞれ一首ずつより成る。成立年は憶良が筑前守に在任していた天平3年(731年)から国司の任期を終えて筑前国から帰京した天平5年(733年)頃にかけてとされる(ちなみに憶良は帰京後まもなく没したと推測されている)。

題である『貧窮問答歌』の意味については近年までは貧者が更にそれよりも貧しい窮者にその窮乏を問うものであるというのが定説であったが、現在では貧者に対する問答の歌と解して役人が貧者を尋ねているという説が有力視されている[1]

古く土屋文明が、オリジナルなリアリズム詩ではなく陶淵明など漢詩の模倣、換骨奪胎であると指摘、これに対して漢文学者からの反論などがある。[2]

脚注

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  1. ^ 『かぜまじり...』(林巨樹安藤千鶴子編「古語林」所収)1997
  2. ^ 上田武,「『貧窮問答歌』における中国文学の影響について」『学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学紀要』 2巻 p.11-19, 1993年03月20日, NAID 110004497082

参考文献

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関連項目

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日本語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。


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