「伊達義広」の版間の差分
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[[承久]]3年([[1221年]])、[[承久の乱]]に家臣の原田某を遣わし、義時の子・[[北条泰時]]に従い宇治勢力と戦っている。
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卒年は定かではなく、『[[伊佐早文書]]』では建長3年(削除) (1251 (削除ここまで)年)、『[[伊達系図]]』では康元元年(削除) (1256 (削除ここまで)年)9月23日<ref group="注釈">実際には、この日付の時にはまだ建長年間である(10月5日に改元)。</ref>となっている。
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[[伊達氏]]は[[伊達郡]]の[[地頭]]職に就いていたが、他にも[[出雲国]]・[[但馬国]]に地頭職を持っていた。これを継承したのが義広の兄である[[伊達時綱|修理亮時綱]]で、[[但馬伊達氏]]・[[出雲伊達氏]]の始祖となった。
[[伊達氏]]は[[伊達郡]]の[[地頭]]職に就いていたが、他にも[[出雲国]]・[[但馬国]]に地頭職を持っていた。これを継承したのが義広の兄である[[伊達時綱|修理亮時綱]]で、[[但馬伊達氏]]・[[出雲伊達氏]]の始祖となった。
2023年4月6日 (木) 16:18時点における最新版
時代 | 鎌倉時代前期 |
---|---|
生誕 | 文治元年(1185年) |
死没 | 建長8年9月23日(1256年 10月12日)または建長3年(1251年) |
別名 | 粟野次郎、入道覚佛 |
諡号 | 覚仏公 |
戒名 | 覚仏 |
官位 | 蔵人大夫、従五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
父母 | 父:伊達宗村 |
兄弟 | 時綱、義広 |
子 | 政依 |
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伊達 義広(だて よしひろ、旧字体:伊達義廣)は、鎌倉時代前期の御家人。通称は粟野次郎、入道覚佛。官位は蔵人大夫、従五位下。伊達氏3代当主。
略歴
[編集 ]伊達宗村の次男。初代朝宗、2代宗村の頃まで、居城は伊達郡桑折郷の高子岡に築かれていたが、義広の代になって桑折郷の栗野大館(現福島県 伊達市 梁川町粟野)に居城を移したとされている。
祖父・朝宗、父・宗村双方の偏諱である「宗」の字が入っていないが、年代的に見て「義」の字は鎌倉幕府2代執権・北条義時から賜ったものと思われる[注釈 1] 。
承久3年(1221年)、承久の乱に家臣の原田某を遣わし、義時の子・北条泰時に従い宇治勢力と戦っている。
卒年は定かではなく、『伊佐早文書』では建長3年(1251年)、『伊達系図』では康元元年(1256年)9月23日[注釈 2] となっている。
伊達氏は伊達郡の地頭職に就いていたが、他にも出雲国・但馬国に地頭職を持っていた。これを継承したのが義広の兄である修理亮時綱で、但馬伊達氏・出雲伊達氏の始祖となった。
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ また、義広の祖父・伊達朝宗の母は、源為義の娘なので、伊達朝宗は、為義の孫で、義広は、頼朝の孫、公暁の従兄弟にあたる。また、伊達政宗公の先祖とも。今のところ確証はないが、兄の時綱が北条氏の通字である「時」の字を使用している(賜っている)ことから可能性は高い。
- ^ 実際には、この日付の時にはまだ建長年間である(10月5日に改元)。
出典
[編集 ][脚注の使い方]