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[[承和 (日本)|承和]]9年([[842年]])に発生した[[承和の変]]に兄・[[藤原正世|正世]]と共に連座して、[[兵部省|兵部少丞]]から[[因幡国#国司|因幡権掾]]に貶謫される(この時の[[位階]]は[[正七位|正七位上]])。承和14年([[847年]])正世が赦免されて[[勅]]により入京を許されており、同時に正岑も入京したか。その後官界に復帰して、[[皇太子]]・道康親王(後の[[文徳天皇]])の[[春宮坊|春宮大進]]となり、[[嘉祥]]2年([[849年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。
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[[嘉祥]]3年([[850年]])[[仁明天皇]]の葬儀に際して山作司を、[[中陰#(削除) 中陰法要 (削除ここまで)|初七日]]では来定寺使を務める。文徳朝では[[監物|大監物]]・[[弾正台|弾正少弼]]等の京官を歴任し、文徳朝末の[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])に[[肥後国#国司|肥後介]]として地方官に転じた。その後、肥後守に昇格したか。
[[嘉祥]]3年([[850年]])[[仁明天皇]]の葬儀に際して山作司を、[[中陰#(追記) 概説 (追記ここまで)|初七日]]では来定寺使を務める。文徳朝では[[監物|大監物]]・[[弾正台|弾正少弼]]等の京官を歴任し、文徳朝末の[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])に[[肥後国#国司|肥後介]]として地方官に転じた。その後、肥後守に昇格したか。


== 官歴 ==
== 官歴 ==

2022年7月12日 (火) 00:27時点における最新版

 
藤原正峯
時代 平安時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 正岑
官位 従五位下肥後守
主君 仁明天皇文徳天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原貞本、母:橘島田麻呂の娘
兄弟 正世正峯
在興
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藤原 正峯(ふじわら の まさみね)は、平安時代初期の貴族。名は正岑とも記される。藤原式家大蔵大輔藤原貞本の子。官位従五位下肥後守

経歴

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承和9年(842年)に発生した承和の変に兄・正世と共に連座して、兵部少丞から因幡権掾に貶謫される(この時の位階正七位上)。承和14年(847年)正世が赦免されてにより入京を許されており、同時に正岑も入京したか。その後官界に復帰して、皇太子・道康親王(後の文徳天皇)の春宮大進となり、嘉祥2年(849年)従五位下叙爵

嘉祥3年(850年)仁明天皇の葬儀に際して山作司を、初七日では来定寺使を務める。文徳朝では大監物弾正少弼等の京官を歴任し、文徳朝末の天安2年(858年)に肥後介として地方官に転じた。その後、肥後守に昇格したか。

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 尊卑分脈

出典

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