「少年ライフル魔事件」の版間の差分
2022年5月31日 (火) 22:16時点における版
少年ライフル魔事件 | |
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場所 |
神奈川県 高座郡座間町 東京都 渋谷区 |
標的 | 一般市民、警官 隊 |
日付 | 1965年(昭和40年)7月29日 |
概要 | 殺人、人質、銃乱射事件 |
武器 | ライフル銃、ピストル |
死亡者 | 1名 |
負傷者 | 約18名 |
犯人 | 少年A(事件当時18歳) |
対処 | 死刑(執行済み) |
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少年ライフル魔事件(しょうねんライフルまじけん)は、1965年(昭和40年)7月29日に発生した、事件当時18歳の少年によるライフル乱射事件。少年と警官 隊との間で銃撃戦が繰り広げられた。最終的に警視庁の警察官に逮捕された。
事件の概要
1965年(昭和40年)7月29日、当時18歳のAは神奈川県 高座郡座間町(現在の座間市)の山林で空気銃でスズメを撃っていた(「警官をおびき出して拳銃を奪う目的で、Aが嘘の110番通報をした」とも)。そこへ通りかかった警察官がAを訊問したところ、Aはこの警察官をライフル銃で銃撃した。弾丸は警察官の胸を撃ち抜き、さらにはAが繰り返し警察官の頭を殴打したため死亡。応援に来たもう1人の警察官にも銃撃し、怪我を負わせた。
その後、山林から逃走したAは通りかかった車に乗り込み、運転手をだます、奪ったピストルを使って脅すなどをしつつ、乗用車4台を乗り継いで逃走。午後6時過ぎに東京都 渋谷区 北谷町 (現在の神南一丁目)の「ロイヤル銃砲火薬店」に到着した。この銃砲店から武器弾薬を強奪し、従業員3人を人質にとって立てこもり、警官隊と銃撃戦を繰り広げた。また流れ弾を避けるため付近を通る日本国有鉄道 山手線は全線運休し、3000人もの野次馬が集結、付近は騒然となった。
Aは警官隊および通行人に向けて合計110発のライフル弾を発射。警察官、通行人、報道関係者等16人を負傷させた。これに対し、警官隊は催涙弾で応戦した。午後7時20分、Aが催涙弾に耐えかねて、2人の女性を盾に路上に出たところを、応援で現場にいた原宿警察署刑事の緒方保範がAの隙を見て体当たりするも被弾。これを別の警察官が取り押さえて逮捕し、事件は収束した。
また、本事件の同時期、のちに永山則夫連続射殺事件を引き起こす少年(永山則夫)が渋谷の銃砲店近くで働いており、本事件の騒ぎを目撃している[1] 。
裁判
Aは、幼い頃から銃マニアであり、手製の銃を作る、射撃場に通うなどすることが趣味であった。
Aの動機は、「『野獣死すべし』(愛読していたバイオレンス小説)のような事を実際にしてみたかった」というものであった[2] 。
1967年 4月13日、一審の横浜地裁は、犯行の悪質さを認めながらも考え方が未熟な少年の犯罪であること、冷たい家庭環境であったことなどを理由に、社会復帰ができる可能性があるとしてAに無期懲役を言い渡した。一方、1968年の東京高裁(控訴審)では矯正の余地なしとしてAに死刑を宣告した。
死刑判決を受けてAは上告。一審、二審とも、Aは「銃への魅力は今なお尽きない。再び多くの人に迷惑をかけないように死刑にしてほしい」と述べていた[3] が、上告にあたり趣意書を提出。「警察や検察庁の取り調べではかっこいいと思って言われるままに自供したが、本当は殺意はなかった」として死刑回避に向けた主張を行った。1969年 10月2日、最高裁も二審判決を支持。「一審、二審の刑が重すぎる、事実認定が間違っているという被告、弁護人の主張は上告する理由にならない」として上告を棄却、Aの死刑が確定した[4] 。
1972年 7月21日、宮城刑務所において死刑執行。享年25。
この事件を扱った作品
- 小説
- 石原慎太郎『嫌悪の狙撃者』
脚注
- ^ 『死刑囚永山則夫』 p125
- ^ 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 p360
- ^ 『死刑囚最後の瞬間』 p117
- ^ 「ライフル少年の死刑確定 理由なし 最高裁が上告棄却」昭和44年(1974年)10月2日夕刊、3版、11面
参考文献
- 事件・犯罪研究会 村野薫『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年。ISBN 4-8089-4003-5。
- 大塚公子『死刑囚の最後の瞬間』角川文庫。ISBN 4-04-187802-0。
- 佐木隆三『死刑囚永山則夫』講談社。ISBN 4-06-263559-3。
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