「弁天台場」の版間の差分
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
m編集の要約なし
3行目:
3行目:
== 概要 ==
== 概要 ==
[[江戸幕府]]が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて箱館湾沖に設立した外国船襲来に備えての砲台であったが、実際に使用されたのは[[箱館戦争]]という日本における内戦だった。箱館戦争終盤の箱館湾海戦において、[[新選組]]が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。明治2年(1869)5月15日、本陣[[五稜郭]]に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。設計者は[[武田斐三郎]]。明治30年頃に取り壊され、現在は[[函館どっく]]入口前に碑が建つのみとなっている。弁天岬台場、弁天砲台とも言う。
[[江戸幕府]]が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて箱館湾沖に設立した外国船襲来に備えての砲台であったが、実際に使用されたのは[[箱館戦争]]という日本における内戦だった。箱館戦争終盤の(追記) [[ (追記ここまで)箱館湾海戦(追記) ]] (追記ここまで)において、[[新選組]]が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。明治2年(1869)5月15日、本陣[[五稜郭]]に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。設計者は[[武田斐三郎]]。明治30年頃に取り壊され、現在は[[函館どっく]]入口前に碑が建つのみとなっている。弁天岬台場、弁天砲台とも言う。
==関連項目==
==関連項目==
2006年9月30日 (土) 09:49時点における版
弁天台場(べんてんだいば)は、幕末に北海道 函館市に設営された台場。
概要
江戸幕府が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて箱館湾沖に設立した外国船襲来に備えての砲台であったが、実際に使用されたのは箱館戦争という日本における内戦だった。箱館戦争終盤の箱館湾海戦において、新選組が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。明治2年(1869)5月15日、本陣五稜郭に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。設計者は武田斐三郎。明治30年頃に取り壊され、現在は函館どっく入口前に碑が建つのみとなっている。弁天岬台場、弁天砲台とも言う。
関連項目
外部リンク
スタブアイコン
この項目は、歴史に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。