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[[武田氏|武田家]]の旧臣である市川昌永の娘とされるが、他にも武田家旧臣である[[穴山信君]]や秋山虎康、または[[武田信玄]]の娘であるという説もある。[[天正]]8年([[1580年]])に[[徳川家康]]との間に三女の[[正清院|振姫]]を出産していることから、この頃に側室となったと考えられる<ref name="r1">秋元茂陽『徳川将軍家墓碑総覧』(パレード、[[星雲社]]、[[2008年]]、p56)</ref>。しかし、振姫の生母を家康の側室である[[下山殿]]とする説もあり、定かではない。
[[武田氏|武田家]]の旧臣である市川昌永の娘とされるが、他にも武田家旧臣である[[穴山信君]]や秋山虎康、または[[武田信玄]]の娘であるという説もある。[[天正]]8年([[1580年]])に[[徳川家康]]との間に三女の[[正清院|振姫]]を出産していることから、この頃に側室となったと考えられる<ref name="r1">秋元茂陽『徳川将軍家墓碑総覧』(パレード、[[星雲社]]、[[2008年]]、p56)</ref>。しかし、振姫の生母を家康の側室である[[下山殿]]とする説もあり、定かではない。


[[寛永]]14年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[1637年]][[4月7日]])、死去。戒名は良雲院殿天譽壽清大姉。墓所は[[東京都]][[台東区]]にある西福寺。また供養塔が[[長野県]][[長野市]]の[[善光寺]]にある<ref name="r1"/>。
[[寛永]]14年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[1637年]][[4月7日]])、死去。戒名は良雲院殿天譽壽清大姉。墓所は[[東京都]][[台東区]]にある(追記) [[ (追記ここまで)西福寺(追記) (台東区)|西福寺]] (追記ここまで)。また供養塔が[[長野県]][[長野市]]の[[善光寺]]にある<ref name="r1"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月20日 (木) 07:40時点における版

良雲院(りょううんいん、生年不明 - 寛永14年3月12日(1637年 4月7日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。徳川家康側室。名は。父は武田家の旧臣である市川昌永とされる[1]

生涯

武田家の旧臣である市川昌永の娘とされるが、他にも武田家旧臣である穴山信君や秋山虎康、または武田信玄の娘であるという説もある。天正8年(1580年)に徳川家康との間に三女の振姫を出産していることから、この頃に側室となったと考えられる[2] 。しかし、振姫の生母を家康の側室である下山殿とする説もあり、定かではない。

寛永14年3月12日(1637年 4月7日)、死去。戒名は良雲院殿天譽壽清大姉。墓所は東京都 台東区にある西福寺。また供養塔が長野県 長野市善光寺にある[2]

脚注

  1. ^ 他にも穴山信君、秋山虎康、武田信玄の娘とする説もあり、詳しくはわかっていない。
  2. ^ a b 秋元茂陽『徳川将軍家墓碑総覧』(パレード、星雲社2008年、p56)

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