「国民革命軍」の版間の差分
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2019年9月13日 (金) 02:01時点における版
國民革命軍 National Revolutionary Army (NRA) | |
---|---|
国民革命軍の軍旗 国民革命軍の軍旗 | |
活動期間 | 1925年 – 1947年 |
国籍 | 中華民国 |
忠誠 |
中国国民党 中華民国 |
兵科 | 陸軍、海軍、空軍 |
主な戦歴 |
北伐 長征 中原大戦 日中戦争 国共内戦 |
指揮 | |
著名な司令官 |
蒋介石 張学良 閻錫山 馮玉祥 白崇禧 孫立人 何応欽 |
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国民革命軍(こくみんかくめいぐん、拼音: Guómín Gémìng Jūn)は、1925年から1947年にかけて存在した中国国民党の党軍隊である。1925年に国民党政府が開かれた広東省でコミンテルンの支援を受けて建軍された。翌1926年から開始された北伐で北京政府を倒し、1928年に南京を首都とする中華民国を成立させた後は国軍となった。北伐の中で反共化した。
1937年からの抗日戦争(日中戦争)では侵攻する日本軍を相手にして頑強に抵抗を続け、再び国共合作で容共化した。日本側はもっぱら国民党軍と呼び、1938年に国民党政府が南京から遷都した後は重慶軍と呼んでいた。終戦後の1946年から始まった国共内戦では国民革命軍から分離した人民解放軍(中国共産党の党軍隊)と戦い、1947年の中華民国憲法によって中華民国国軍と名称を変え[1] 、1949年に台湾へと逃れた。
歴史
1925年、中国国民党は広東省を本拠地とする広東国民政府を開いた。同時に北京政府を倒して中国統一を果たすための軍隊設立に着手し、コミンテルンの支援を得て建軍されたのが「国民革命軍」であった。コミンテルンの狙いは第一次国共合作で共産党の細胞を植え付けておき、中国制覇が迫った所で乗っ取らせる為の寄生先として利用する事にあった。士官の多くは黄埔軍官学校の卒業生で占められており、その初代校長であった蒋介石は、北伐開始前の1926年に国民革命軍の最高司令官に就任した。
1926年、蒋介石は北伐を開始し各地の軍閥を服従させつつ、1928年に北京政府の攻略に成功して表向き中国全土を統一した。同年に南京を首都とする中華民国が樹立されたが、すぐさま地方軍閥の反目が相次いで元の内戦状態に逆戻りした。1927年の上海クーデターと南昌蜂起に見舞われた蒋介石は、共産党を危険視して弾圧対象とした。1930年に軍閥連合との間で行なわれた中原大戦において決定的勝利を収めるも、混乱の収束までは到らず、中国共産党の活動も大きな懸念となっていた。1931年の満州事変で日本軍が満州全土を占領したのと同時期に、共産党を率いる立場となった毛沢東も江西省に中華ソビエト政府を打ち立てていた。抗日よりも反共作戦を重要視した蒋介石は、大軍を動員して共産党軍への攻撃を開始した。数度に渡って共産党軍を撃破した後に、1934年に江西省の共産党本拠地を包囲した。進退窮まった共産党軍はソ連と直接連絡を取れる陝西省を目指して長征と称する逃避行を開始した。蒋介石は各軍閥の掃討戦と並行して共産党軍の追撃も続けた。1936年に共産党軍は陝西省まで辿り着き長征を終えたが、これを追う蒋介石は再び大軍で包囲網を敷き、毛沢東は絶体絶命の窮地に置かれた。しかし同年12月に蒋介石が友軍の張学良に監禁されるという西安事件が発生した。その中で蒋介石は第二次国共合作を呑まされて止む無く共産党軍と休戦し、抗日統一戦線を組む事になった。なお、当時の国民革命軍200万に対して共産党軍は1万人程であった。
1937年、盧溝橋事件の発生から日本軍の侵攻が始まると、共産党軍は華北の八路軍と華南の新四軍に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に南京が陥落すると国民政府は重慶に首都を移して立て篭もった。中国大陸のほぼ東半分を舞台にして国民革命軍と日本軍の泥沼の戦いが続けられる中で、毛沢東はソ連の支援を受けながら各地の農村をオルグして急速に支持層を増やし、また共産党軍の兵力も拡大させていた。1945年に日本が無条件降伏して日本軍が武装解除されるのと同時に国民党と共産党の争いも再燃し、1946年に国共内戦の火蓋が切られた。国民革命軍から分離した共産党軍は、抗日戦争期間中に漁夫の利を得て既に国民革命軍を凌ぐ戦力を蓄えていたので終始優勢に立ち、蒋介石は敗退に次ぐ敗退を重ねた。加えて国民革命軍は各部隊の離反や共産党への転向といった問題にも悩まされていた。1947年には中華民国憲法に従って「国民革命軍」から「国軍」(中華民国国軍)に名称を変えた[1] 。広州まで追い詰められた蒋介石は生き残った中華民国国軍の部隊とともに台湾へ逃れ、1949年に台湾政府を樹立した。
組織
概要
国民革命軍は、合計354個の師(師団)を1945年までに編制しており、その総兵員数は430万人に及んだ。その内の20個は騎兵師(騎兵師団)だった。建軍前期の各師団の定員数は5千から6千人であり、日本など他の近代軍隊の師団が1万から1万5千人だったのに比べてはるかに少なかった。中独合作の下でドイツ式の編制と訓練を施された徳械師(ドイツ式師団)の定員は1万4千人となっており[2] 、他の師団も徐々に定員の増強が図られた。師の標準構成と異なる形で編制されたものは新編師(新編師団)と称された。師団の大半はその充足率が低く、前線に投入されて稼働状態になる際は他の師団兵員を追加して数合わせされる事が多かったので、同時に活動している実際の師団数はずっと少なかった。国民革命軍は、国民党の師団、地方軍閥の師団、共産党の師団の寄せ集めであったので人数、装備、練度、規律に大きなばらつきがあった。1937年の総兵力は225万人、1941年は述べ380万人の兵士が動員されていた。
師は編制上の基本単位であり、教導團と呼ばれる模範部隊が置かれて全体の中核となり全兵員を教化した。師はそれぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。師はほとんど歩兵で構成されたが、砲兵營(砲兵大隊)や工兵營(工兵大隊)が追加される事もあった。前線に出る時はほとんどの場合、戦術上の基本単位である軍の下に編入されて行動した。軍は複数個の師を動かし、それを支援する砲兵團(砲兵連隊)や工兵團(工兵連隊)などを加えて実働戦力を完成させた。軍は1945年までに120個が編制された。軍の兵員数は平時はかなりのばらつきがあったが、戦時期間は概ね2万から3万人だった。北伐と抗日戦争の戦時期間には、複数個の軍をまとめた集團軍が編制されて作戦上の基本単位になった。集團軍は1945年までに40個編制された。
兵員の確保は強制徴募と募兵で行なわれており、市内の溜まり場で健康そうな若者を見つけると強制的に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。手配師の周旋先が実は軍隊で向かった労働者たちがそのまま部隊に編入されてしまうような詐欺紛いの募兵も頻発していた。また、町区や村落に圧力をかけて一定数の男子を供出させる事もあった。「良い鉄は釘にならず、良い人は兵隊にならない」の言葉通り、後者の寡兵では食い詰め者やならず者ばかりが集まり、地方の部隊では匪賊の類がそのまま編入されてる事もあった。1936年から近代国家に倣った兵役制度が各都市に指示されたが戸籍の不備からほとんど機能していなかったと言われる。南京、上海、広州、武漢では比較的ましな若者が得られたとされ、また広西省で組織された部隊は勇敢だとの評判を取った。兵士への給与の支払いと食糧の支給は滞る事が多く、住民からの徴発と略奪行為が横行していた。暴虐行為も頻繁に起き、殺人も珍しくなかったと言われる。部隊編入時に支給された小銃を売却してしまう者もおり、次の日には手ぶらになっている兵士も時折見られたという。こうした規律の低さから兵士たちの戦意も低く、何時でも逃げ出せるように着替え用の私服(便衣)を持つ者も多かった。彼らを信用していない指揮官たちは督戦隊を頻繁に組織して後方から監視させ、持ち場を離れる者を容赦なく射殺していた。同様の目的で兵士を入れたトーチカに外から鍵を懸けたり、塹壕に配置した兵士を鎖で繋ぎ止めることも行なわれた。そのため、西洋の軍事評論家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った[3] 。
ドイツ式部隊
北伐期間中に国民革命軍の主力となったのは、ドイツ軍事顧問団によってドイツ式訓練と装備を施された「徳械師」と呼ばれる6個の師団であった。それらは第3師、第6師、第9師、第14師、第87師、第88師である。その他にも装備品は後回しでドイツ式訓練で強化された12個の師団があった。それらを含む約40個の国民党直属師団には欧州製の装備品が支給されていた。
戦車・装甲車部隊
国民革命軍も数は少ないが機甲部隊と機械化歩兵部隊を編制していた。日中戦争が始まった1937年時の機甲部隊は3個大隊で組織され、ソ連、ドイツ、イタリアから輸入された戦車と装甲車を持っていた。これらが上海戦と南京戦で壊滅した後は、ソ連から戦車と装甲車の提供を受けて唯一の機甲師団となる第200師を編制した。1938年6月に第200師の機甲部隊が第5軍の方に移管されるという再編制が行なわれ、第200師は装甲車部隊のみを持つ機械化歩兵師団となった。その後の第200師は1939年から40年にかけて広西省の桂南会戦に参加し、1942年には中国遠征軍(ビルマ派遣用に編制された一軍)の指揮下に入って雲南省とビルマで戦った。ビルマ戦線の後半期に中国遠征軍はシャーマン戦車が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。
編制序列
国民革命軍を構成する編制単位は以下の通りである。戦区は日中戦争が始まった1937年7月から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を統括した。1938年末以降は10区以上になった。戦区内の兵力が増えると更に区分けされて兵団が設けられた。兵団は地名が冠せられるか戦区内での通し番号が振られた。1944年末に設置された中国陸軍総司令部は戦区と同等であり、インドシナと華南方面で米英陸軍と共同するものとされた。中国陸軍総司令部下の方面軍は兵団と同等であり複数の集団軍を指揮した。
- 国民政府軍事委員会
- 行営 -- 必要に応じて各地方に設置された軍事委員会の出先機関。1個以上の戦區を指導した。
- 戦區(戦区)-- 一定の作戦区域を受け持つ軍管区である。複数の集團軍とその他を統括した。
- 兵團(兵団)-- 戦區を更に分割したもの。1個以上の集團軍とその他を持った。
- 集團軍(集団軍)-- 2個以上の軍とその他を持った。1926〜28年と1937〜45年に存在。
- 路軍 -- 1個以上の軍とその他を持った。集團軍の平時版または小型版。1929〜37年に存在。
- 集團軍と軍の間
- 方面軍 -- 集團軍の下で2個以上の軍を指揮した。北伐中の1926〜28年に存在。
- 軍團 -- 1928年から存在。28年は蒋介石直属の小型集團軍だった。32年からは地方軍閥所属の軍を1個以上まとめた編制単位となった。37年以降は集團軍の小型版となり1個以上の軍とその他を持った。
- 軍 -- 軍団に相当する。2個以上の歩兵師と砲兵團と工兵團などを持った。
- 師 -- 師団に相当する。2個の旅と教導團(全兵員を教化する模範部隊)を持った。
- 旅 -- 旅団に相当する。2個の團を持った。2個以上の團を持つ独立旅は師の小型版だった。
- 團 -- 連隊に相当する。ここから全軍中の通し番号が振られた。
- 營 -- 大隊
- 連 -- 中隊
- 排 -- 小隊
- 班 -- 分隊
編制上の基本単位は師であり、それぞれが独自に兵員の募集または強制徴募を行なって人数を揃える仕組みとなっていた。各師は通常2個の旅ナンバーと4個の團ナンバーを連番で軍中央から与えられており、師の全兵員は師長の裁量で分割され、前述のナンバーを振られて旅と團が作られていた。ナンバーは全軍中で一意なものだった。團は連隊に相当するが、日本の様に各郷土ごとに組織されて下から師団を組み立てるものではなく、師を分割して上から組織される点で異なっていた。なお、砲兵や工兵および機甲部隊などの團は軍中央の下で計画的に組織された。戦術上の基本単位は軍であり、通常2個の師を砲兵團と工兵團の支援下で連携させて実働戦力を完成させた。北伐と抗日戦争の戦時期間に編制された集團軍は作戦上の基本単位になった。
指揮官の称号は、行営は主任、戦区は司令長官、兵団と集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮で、当時は日本式に倣っていた。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長であった。
軍階序列
階級 | 军兵种 | 肩当て | |
---|---|---|---|
将官 | 特級上将 | ||
一級上将 | |||
二級上将 | |||
中将 | |||
少将 | |||
校官 | 上校 | 炮兵 | |
中校 | 骑兵 | ||
少校 | 宪兵 | ||
尉官 | 上尉 | 军乐 | |
中尉 | 炮兵 | ||
少尉 | 测绘 | ||
准軍官 | 准尉 | 骑兵 | |
士官 | 上士 | 军需 | |
中士 | 军医 | ||
下士 | 通讯 | ||
士兵 | 上等兵 | 工兵 | |
一等兵 | 机械化部队 | ||
二等兵 | 宪兵 |
装備
中国の武器は主に漢陽、広東、及び太原で生産された。ただしドイツ人に訓練された師団のほとんどが標準とした小銃は7.92mmのGew98とKar98kというドイツ製であった。しかし、中国の通常の師団ではその標準の小銃は'漢陽88式小銃'というGew88のコピーと'中正式小銃'というGew98のコピーであった。標準の軽機関銃は7.92mmのZB26軽機関銃というチェコ製の中国におけるコピーであった。ベルギー製、フランス製の軽機関銃もあった。また、国民革命軍はドイツからMG34機関銃を購入せず、彼ら自身によるそのモデルのコピーを生産した。これらの師団では通常、各小隊に軽機関銃がひとつずつあった。重機関銃は主にドイツからの設計図をもとに現地生産された水冷式の24式重機関銃(マキシム機関銃)であった。平均すると各大隊ごとに重機関銃はひとつずつ与えられた(第二次世界大戦における実際のドイツ師団の三分の一から半分程度である)。標準の携帯銃は、7.63mmのモーゼルC96セミオート拳銃、あるいはフルオートのモーゼル・シュネルフォイヤーであった。 これらのフルオートマチックのタイプは第二次世界大戦の終了前に中国軍で不足したサブマシンガンと小銃の代わりに使用された。日中戦争の期間は国民革命軍は彼ら自身の武器の不足とその品質の悪さがあり、得られた日本製の武器と装備をかなり利用した。
いくつかの師団には37mm3.7 cm PaK 36 対戦車砲とエリコン、マドセン、あるいはゾロトゥルン社製の迫撃砲の両方もしくは片方が配備された。各歩兵師団はフランス・ブラント社製81mm迫撃砲6門と ゾロトゥルン社製20mm機関砲6門を持った。いくつかの独立旅団と大砲連隊にはボフォース社製72 mm L/14、あるいはクルップ社製72mm L/29 山砲とラインメタル社製150mm L/32 sFH 18 榴弾砲24門(1934年購入)とクルップ社製 150mm L/30 sFH 18 榴弾砲24門(1936年購入)が配備された。
歩兵の制服は、人民服を基本とし調整されたものである。国民革命軍の部隊の主な移動手段は徒歩だったため、兵士及び将校も同様に巻脚絆を標準とした。ヘルメットはこれらの師団を最も特徴づけるものだった。1935年からドイツ・シュタールヘルム社製M1935ヘルメット(欧州戦線では終戦間近までドイツ国防軍の標準仕様であった)が生産され、国民革命軍は1936年までに横に中華民国の青天白日の紋章がついた31万5千個を輸入した。他にはアドリアンヘルメット(フランス軍のヘルメット)、ブロディヘルメット(イギリス軍のヘルメット)、後期にはM1ヘルメット(アメリカ軍のヘルメット)も使用された。他の装備には兵士のための布靴、将校の為の革靴、及び高級将校の為の皮製ブーツがあった。全兵士に弾薬、弾薬ポーチもしくはハーネス、スキットル、コンバット・ナイフ、食料袋、及びガスマスクが配給された。
脚注
- ^ a b 参见台北历史文献社编,政协文献,页101
- ^ en:German-trained_divisions
- ^ p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm
関連項目
- 黄埔軍官学校
- 北伐 (中国国民党) - 中ソ紛争 - 中原大戦 - 囲剿 - 満州事変 - 日中戦争 - 日中戦争後の国共内戦
- 蒋介石
- 中独合作
- 中華民国国軍
- 中華民国の歴史
- 中国人民解放軍
- 国民軍 (中華民国)
- 韓国光復軍
- 抗日老兵