コンテンツにスキップ
Wikipedia

「姚文元」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
17行目: 17行目:


==経歴==
==経歴==
復旦大学にて学び、延安に潜入ののち、山西省で人民解放軍に加盟。
[[1948年]]に[[中国共産党]]に入党。[[上海市|上海]]の党地区委員会で宣伝工作に携わる。[[1955年]]に[[胡風]]を批判<ref>父の姚蓬子は、胡風とは親しかった。</ref>した『分清是非、劃清界限』を発表し[[張春橋]]の注目を浴びる。その評論活動から[[1950年代]]中ごろまでに[[毛沢東]]の知遇を得た。

[[1948年]]に[[中国共産党]]に入党(追記) 。[[1951年]]、新民主主義青年団上海市工作委員会幹部 (追記ここまで)。[[上海市|上海]]の党地区委員会で宣伝工作に携わる。[[1955年]]に[[胡風]]を批判<ref>父の姚蓬子は、胡風とは親しかった。</ref>した『分清是非、劃清界限』を発表し[[張春橋]]の注目を浴びる。その評論活動から[[1950年代]]中ごろまでに[[毛沢東]]の知遇を得た。


[[1965年]][[11月10日]]の「[[文匯報 (上海)|文匯報]]」に「評新編歴史劇『[[海瑞罷官]]』」(「[[新編歴史劇『海瑞罷官』を評す]]」)を発表。翌[[1966年]][[5月10日]]の「文匯報」「[[解放日報]]」にも『評「[[三家村]]」──「[[燕山夜話]]」「[[三家村札記]]」的反動本質』(『三家村』を評す──「燕山夜話」「三家村札記」の反動的本質)を発表し、[[文化大革命]]の発端を開いた<ref>「海瑞罷官」の詳細は該当項目を参照。姚文元はこれを、[[大躍進政策]]や三面紅旗を暗に批判するものだと決めつけた(のちに、失脚した[[彭徳懐]]を擁護するものだという見解が[[毛沢東]]により付加される)。また、「燕山夜話」「三家村札記」は、北京市共産党委員会書記だった[[呉晗]](「海瑞罷官」の作者)と鄧拓による随筆で、やはり大躍進政策に対する反省や批判が含まれていた。</ref>。これを契機に「解放日報」編集委員・党上海市委員会宣伝部長と出世し[[中央文革小組]]の一員にまでなった。その後も党上海市委員会第二書記・党政治局委員を歴任し、文化大革命を[[イデオロギー]]面から支えた。
[[1965年]][[11月10日]]の「[[文匯報 (上海)|文匯報]]」に「評新編歴史劇『[[海瑞罷官]]』」(「[[新編歴史劇『海瑞罷官』を評す]]」)を発表。翌[[1966年]][[5月10日]]の「文匯報」「[[解放日報]]」にも『評「[[三家村]]」──「[[燕山夜話]]」「[[三家村札記]]」的反動本質』(『三家村』を評す──「燕山夜話」「三家村札記」の反動的本質)を発表し、[[文化大革命]]の発端を開いた<ref>「海瑞罷官」の詳細は該当項目を参照。姚文元はこれを、[[大躍進政策]]や三面紅旗を暗に批判するものだと決めつけた(のちに、失脚した[[彭徳懐]]を擁護するものだという見解が[[毛沢東]]により付加される)。また、「燕山夜話」「三家村札記」は、北京市共産党委員会書記だった[[呉晗]](「海瑞罷官」の作者)と鄧拓による随筆で、やはり大躍進政策に対する反省や批判が含まれていた。</ref>。これを契機に「解放日報」編集委員・党上海市委員会宣伝部長と出世し[[中央文革小組]]の一員にまでなった。その後も党上海市委員会第二書記・党政治局委員を歴任し、文化大革命を[[イデオロギー]]面から支えた。

2019年1月31日 (木) 18:33時点における版

姚文元
プロフィール
出生: 1931年 1月12日
死去: 2005年 12月23日
出身地: 中華民国の旗 中華民国 浙江省 諸曁県
職業: 政治家
各種表記
繁体字: 姚文元
簡体字: 姚文元
拼音: Yáo Wényuán
和名表記: よう ぶんげん
発音転記: ヤン ウェンユェン
テンプレートを表示

姚文元(よう ぶんげん、ヤン ウェンユェン、1931年 1月12日 - 2005年 12月23日)は、中国政治家四人組の一人。中国の作家翻訳家の姚蓬子を父に持つ。

経歴

復旦大学にて学び、延安に潜入ののち、山西省で人民解放軍に加盟。

1948年中国共産党に入党。1951年、新民主主義青年団上海市工作委員会幹部。上海の党地区委員会で宣伝工作に携わる。1955年胡風を批判[1] した『分清是非、劃清界限』を発表し張春橋の注目を浴びる。その評論活動から1950年代中ごろまでに毛沢東の知遇を得た。

1965年 11月10日の「文匯報」に「評新編歴史劇『海瑞罷官』」(「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」)を発表。翌1966年 5月10日の「文匯報」「解放日報」にも『評「三家村」──「燕山夜話」「三家村札記」的反動本質』(『三家村』を評す──「燕山夜話」「三家村札記」の反動的本質)を発表し、文化大革命の発端を開いた[2] 。これを契機に「解放日報」編集委員・党上海市委員会宣伝部長と出世し中央文革小組の一員にまでなった。その後も党上海市委員会第二書記・党政治局委員を歴任し、文化大革命をイデオロギー面から支えた。

1976年10月に他の四人組と共に逮捕されて隔離審査され、1981年1月に最高人民法院特別法廷で、懲役20年・政治権利剥奪5年の判決を受ける。1996年に出所し、2005年 12月23日糖尿病により74歳で死去した。

著作本

脚注

  1. ^ 父の姚蓬子は、胡風とは親しかった。
  2. ^ 「海瑞罷官」の詳細は該当項目を参照。姚文元はこれを、大躍進政策や三面紅旗を暗に批判するものだと決めつけた(のちに、失脚した彭徳懐を擁護するものだという見解が毛沢東により付加される)。また、「燕山夜話」「三家村札記」は、北京市共産党委員会書記だった呉晗(「海瑞罷官」の作者)と鄧拓による随筆で、やはり大躍進政策に対する反省や批判が含まれていた。

関連項目

スタブアイコン

この項目は、文学 に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。

項目が小説家作家の場合には {{Writer-stub}} を、文学作品以外の雑誌の場合には {{Book-stub}} を貼り付けてください。

文化大革命 (1966 – 1976)
前史
主要事件
主な虐殺
主要人物
中国共産党指導部
林彪グループ
失脚した政治家
迫害を受け亡くなった人物
その他
文書
概念
集団
芸術
毛沢東称賛歌
外交
結果・影響
関連作品
文学・伝記
映画
関連項目
Portal:歴史

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /