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*幕内優勝:1回
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*十両優勝:1回
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==受賞歴==
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*三賞:殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞2回
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==その他==
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*[[若の里忍|若の里]]に分が悪く、対戦成績は2005年7月場所終了時点で白鵬の6戦全敗だったが、翌9月場所6日目、取り直しの末初めて勝ち、只今3連勝中である。
*[[若の里忍|若の里]]に分が悪く、対戦成績は2005年7月場所終了時点で白鵬の6戦全敗だったが、翌9月場所6日目、取り直しの末初めて勝ち、只今3連勝中である。

*現在の師匠は[[金親和憲|宮城野親方]]だが、白鵬は事実上[[竹葉山真邦|熊ヶ谷親方]]の内弟子。熊ヶ谷親方が宮城野部屋から分家独立し、「熊ヶ谷部屋」を創設した場合、白鵬は熊ヶ谷部屋に移籍することが予想される。しかし、熊ヶ谷親方の宮城野部屋継承時の経緯から独立の可能性は極めて低い。
*現在の師匠は[[金親和憲|宮城野親方]]だが、白鵬は事実上[[竹葉山真邦|熊ヶ谷親方]]の内弟子。熊ヶ谷親方が宮城野部屋から分家独立し、「熊ヶ谷部屋」を創設した場合、白鵬は熊ヶ谷部屋に移籍することが予想される。しかし、熊ヶ谷親方の宮城野部屋継承時の経緯から独立の可能性は極めて低い。


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*[[大関一覧]]
*[[大関一覧]]
*[[竹葉山真邦]]
*[[竹葉山真邦]]

== 外部リンク ==
*[http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_meikan/rikishi_joho/rikishi_2320.html 白鵬 翔]



[[Category:1985年生|はくほうしよう]]
[[Category:1985年生|はくほうしよう]]

2006年8月11日 (金) 10:04時点における版

白鵬翔(はくほう しょう、1985年 3月11日-)は、大相撲 力士。本名は Мөнхбатын Даваажаргал(Mönkhbatyn Davaajargal;ムンフバト・ダヴァジャルガル、Davaajargalは月曜日の幸福という意味)。モンゴル国 ウランバートル市出身。宮城野部屋に所属。得意手は右四つ、寄り。出し投げによる崩しも強烈である。身長192cm、体重153kg。最高位は大関

来歴

父ジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)の元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱)で、メキシコシティオリンピックレスリングの銀メダリストとなったモンゴル国の国民的英雄。母タミルは元医師。来日前にブフの経験はほとんどなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。

幕内で活躍していた旭鷲山の誘いを受け、2000年 10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大相撲入りを目指して大阪の摂津倉庫で相撲を習っていた。猛虎浪大想源大河の入門が決まるなか、小柄だった彼を受け入れてくれる部屋は最後までなかった。失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が師匠である大島親方(元大関旭國)と会食中に相談し、大島親方は友人であった当時の宮城野親方(元幕内竹葉山、現熊ヶ谷親方)に受け入れを申し入れる。こうして角界入りとなるものの、部屋の元力士に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野親方は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったという。しかし一方で、大きな手と足と腰を見て、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2ヶ月間は稽古をさせず、吐く程に食べさせ、毎日牛乳を飲ませた。入門当時は175cmで68kgだった体も、熱心な稽古と食文化の違いを苦にせず大食漢だったことで、相撲の実力とともに体も大きく成長し現在も持続中である。四股名は、横綱大鵬柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(元十両千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年三月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌五月場所は身体の小ささもあり、後に出世する力士としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかしその後肉体の急激な成長と歩を合わせるかのように番付を駆け上がっていく。

2003年十一月場所、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を残した。本来なら幕下9枚目の6勝では十両昇進出来ないが、翌場所の関取の定員増員の恩恵を受け2004年一月場所に十両昇進を果たした。十両はわずか二場所で通過し、同年5月場所に新入幕。19歳1ヶ月での新入幕は貴花田(=貴乃花)、北の湖花田(=貴ノ花)に次ぐ当時史上四位の若さであった。その5月場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立ち合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱、朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で敢闘賞を受賞する。決定戦の後朝青龍と握手。その光景は部屋、一門を越えたモンゴル人同士の結びつきの強さを認識させた。

入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年三月場所には関脇に昇進し、直近の二場所で12勝・11勝を上げていた事から大関取りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの、睡眠時無呼吸症候群からの稽古不足により序盤からまさかの3連敗で、終盤追い上げて8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。さらに同年七月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷、内反捻挫。初土俵以来初めて休場した。2004年十一月場所以来5場所ぶりに平幕落ちした2005年九月場所は西前頭筆頭で9勝6敗。5場所ぶりに小結に復帰(三役は2場所ぶり)した2005年十一月場所は、西小結で9勝6敗と先場所と同じ成績であった。

関脇に復帰した2006年一月場所では、幕内では初めて初日から6連勝し、12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り切りで圧勝し栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝を決めた。しかし千秋楽まで優勝に絡み13勝2敗の成績を挙げた。

同年三月場所は自身2度目の大関獲りとなった。11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関獲りの基準といわれる33勝目をあげた(ちなみにこの一番はモンゴル国内の瞬間視聴率は93パーセントの驚異の数字になったといわれている)。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため優勝決定戦となり再び朝青龍と対戦。朝青龍に得意の右四つからの下手投げで破れ優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を受賞するなど高く評価された。

同年3月29日。日本相撲協会は、大阪市内で理事会と番付編成会議を開き、大関昇進を満場一致で決めた。使者として友綱理事(元関脇・魁輝薫秀)と春日山審判委員(元幕内・春日富士晃大)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の宮城野親方(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎えた。「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬよう、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と口上を述べたが、本人曰く、本来は「全身全霊をかけて"一生懸命"努力します」と言う予定だった。

同年5月新大関で14勝1敗、本割で唯一負けた雅山との再戦となった決定戦で勝利、新大関最高成績更新というおまけつきで初優勝を果たした。決定戦の前、支度部屋では入門の恩人である旭鷲山が懇々と白鵬を説く光景が見られ、両者の絆が垣間見えた。この際旭鷲山の助言により、風呂に入って汗をかくことで雅山の突きの威力を半減させたことが勝因とも言われる。また決定戦の後、本割で下した把瑠都と交わした抱擁は、部屋、国籍を超えた両者の深い友情を感じさせた。

同年7月場所、綱取りの緊張からか初日の朝赤龍戦に敗れてしまったがその後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽でも朝青龍を破り13勝2敗で場所を終えた。横綱昇進が期待されたが、朝青龍の独走を許したこともあって、見送られた。9月場所での綱取りを目指す。

略歴

成績・タイトル

2006年7月場所終了現在

  • 通算成績:255勝106敗6休(34場所)
  • 幕内成績:161勝58敗6休(15場所)
  • 金星:1個(朝青龍)

各段優勝

  • 幕内優勝:1回
  • 十両優勝:1回

受賞歴

  • 三賞:殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞2回

その他

  • 若の里に分が悪く、対戦成績は2005年7月場所終了時点で白鵬の6戦全敗だったが、翌9月場所6日目、取り直しの末初めて勝ち、只今3連勝中である。
  • 現在の師匠は宮城野親方だが、白鵬は事実上熊ヶ谷親方の内弟子。熊ヶ谷親方が宮城野部屋から分家独立し、「熊ヶ谷部屋」を創設した場合、白鵬は熊ヶ谷部屋に移籍することが予想される。しかし、熊ヶ谷親方の宮城野部屋継承時の経緯から独立の可能性は極めて低い。

関連項目

外部リンク

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