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2018年9月9日 (日) 14:44時点における版
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 天文5年(1536年) |
死没 | 天正8年3月16日(1580年 3月31日) |
別名 | 重武、通称:七郎 |
戒名 | 月窓成円大居士 |
墓所 | 鹿児島県 南大隅町の宝屋寺 |
官位 | 右近大夫 |
主君 | 肝付兼続→島津義久 |
氏族 | 禰寝氏 |
父母 | 父:禰寝清年、母:島津忠興娘 |
妻 | 正室:肝付兼続娘 |
子 | 重張 、本田忠親室 |
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禰寝 重長(ねじめ しげたけ[1] )は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。禰寝氏16代当主。
永禄4年(1561年)、肝付兼続に従って大隅国内に出陣する。その後も肝付氏に従って島津氏と戦ったが、兼続の死で肝付氏の形勢が不利になると、元亀4年(1573年)、島津義久と単独で和睦した。このため、肝付兼亮と伊地知重興に攻められることとなったが、これは島津軍の援軍によって撃退している。
また、重長は内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。温州みかんの栽培を日本で最初に行った人物といわれている。
天正8年(1580年)死去。嫡子・重張が17代当主となり、島津氏の重臣として引き続き仕えた。
脚注
- ^ 「しげなが」と読む文献が多いが、史料上「重武」と充てるものもあるので、この読みは誤りと考えられる。なお名字表記も根占(禰占)と記される場合も多い(根占献一『東西ルネサンスの邂逅ー南蛮と禰寝氏の歴史的世界を求めて』と諸論考などによる)。