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阪神タイガース コーチ #70 | |
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2015年4月30日 阪神甲子園球場にて撮影 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本の旗 日本 |
出身地 | 奈良県 吉野郡 下市町 |
生年月日 | (1954年05月27日) 1954年 5月27日(70歳) |
身長 体重 |
170 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
初出場 | 1979年4月7日 |
最終出場 | 1989年10月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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高代 延博(たかしろ のぶひろ、1954年 5月27日 - )は、奈良県 吉野郡 下市町出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球コーチ・野球評論家。
現役時代は日本ハムファイターズと広島東洋カープに所属。日本ハム時代の1985年から1988年までは、「高代 慎也」(たかしろ しんや)という登録名を用いていた。
1989年に現役を引退してからは、広島・日本ハムを含む日韓8球団や野球日本代表のコーチを歴任している。2014年からは、阪神タイガースに一軍コーチとして在籍。一軍内野守備走塁コーチ・一軍作戦兼内野守備走塁コーチを経て、2016年シーズンから一軍ヘッドコーチを務める。
経歴
プロ入り前
智辯学園高校では内野手兼控え投手として活躍。1972年春季近畿大会で優勝を飾るが、甲子園には出場できなかった。高校同期に田中昌宏、1年下に柳原隆弘がいた。
卒業後は法政大学へ進学。東京六大学リーグでは3年生の時からレギュラーとして出場、2回の優勝に貢献。3年生秋に首位打者になる。1976年には明治神宮野球大会でも決勝で早大を降し優勝。リーグ通算50試合出場、190打数55安打、打率.289、1本塁打、17打点。ベストナイン3回(三塁手1回、遊撃手2回)。
卒業後は東芝に入社、中心打者として活躍する。1977年、1978年に都市対抗野球大会連続出場。1978年の大会ではチームの初優勝に貢献した。1977年には遊撃手として社会人ベストナインに選出され、第3回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表となっている。
プロ入り後
1979年ドラフト1位で日本ハムファイターズに入団。1年目から遊撃手のレギュラーに定着し、ゴールデングラブ賞を受賞。翌1980年にはベストナインにも選ばれた。1981年のリーグ優勝にも貢献する。
170cmに満たない体格であったが、熱血漢であり、菅野光夫・古屋英夫らと共にチームの主力として活躍した。1988年 10月28日に広島東洋カープへ鍋屋道夫、滝口光則らとの交換トレードで移籍[1] 。1989年限りで現役引退。
引退後
引退後は、1990年から1998年まで広島一軍守備・走塁コーチを務める。三村敏之が監督の時、中日監督の星野仙一から再三「高代をコーチとして譲ってほしい」と打診があった。しかし、三村は「私がいるうちは高代だけは出せない」と拒否した。[2] 三村監督退任後の1999年に中日へ移籍。ノックを浴びせていた福留孝介、立浪和義のあまりの守備の緩慢さに大激怒し、「お前ら! PLに返すぞ!」と怒鳴り散らした。
1999年から2001年まで中日の一軍内野守備・走塁コーチを務めた。2002年には古巣・日本ハムの一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチに就任、審判への暴力行為で出場停止となった監督の大島康徳の代わりに4月3日、4日のオリックス戦は監督代行務め(成績2勝0敗)、同年退団。2003年には大学の先輩山本功児が監督を務めるロッテの一軍ヘッドコーチに就任したが山本の解任もあり1年限りで退団。2004年から2008年まで中日一軍野手総合チーフコーチを歴任。三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、中日がセ・リーグのペナントを制した2006年は本塁での憤死をリーグ最小の1にとどめた。
2009年には第2回WBCの日本代表の内野守備・走塁コーチに就任した。三塁ベースコーチを担当し、WBC日本代表の連覇に貢献した。また、議論の的になった亀井義行の代表入りを推薦した。WBC終了後、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約し東京中日スポーツで野球評論家、古巣・東芝で臨時コーチを務めていた。
2009年10月、韓国のハンファ・イーグルスの臨時インストラクターに就任し、翌年は同球団で総合コーチを務めた[3] 。
2011年からはオリックス・バファローズのヘッドコーチを務める。同年9月16日のロッテ戦からは松山秀明に代わりに三塁ベースコーチも務めた[4] 。シーズン最下位が確定した2012年9月25日、球団から監督の岡田彰布と共に休養(事実上の解任)を告げられ、同年シーズン終了を以って正式に退団。
2012年10月10日に、野球日本代表の内野守備・走塁コーチに就任したことが発表された[5] 。11月13日に、背番号が「63」となった事が発表された[6] 。
2014年からは、阪神タイガースで一軍内野守備・走塁コーチを担当[7] 。オリックス時代に続いて三塁のベースコーチを任されているほか、2015年には一軍の作戦コーチを兼務した。広島のコーチ時代に指導した金本知憲が一軍監督へ就任した2016年からは、一軍ヘッドコーチとして金本を支えながら、金本の意向で引き続き三塁のベースコーチを務める予定[8] 。
コーチとして
前述のとおり、三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、2006年にはシーズン本塁憤死を1に留め中日のリーグ優勝に貢献した。野村克也は高代を「日本一の三塁ベースコーチ」と語り、メディアでも「日本一の三塁ベースコーチ」と称されることがある[9] 。
毎日放送グループが「ホームイン with Tigers」(阪神の公式戦チーム総得点数に着目した応援キャンペーン)を展開していた2015年には、『ちちんぷいぷい』(MBSテレビ平日午後の情報番組)で阪神の得点シーンの映像を定期的に放送していたことから、阪神の三塁ベースコーチとして身振り手振りで塁上の走者に指示を送る高代を(「得点=ホームイン」という連想から)「虎のお帰りジャッジマン」と称していた[10] 。
金本が阪神移籍後の2006年に連続フルイニング出場の世界記録を更新した際の会見では、「広島時代に自分に大きな影響を与えてくれた3人」のうち、「守備・走塁を根気よく教えてくれたコーチ」として高代の名を挙げた。高代自身も、広島時代に当時の監督・三村敏之から金本と共に野球観を学んだ縁で、金本の阪神一軍監督就任を機に一軍ヘッドコーチへ異動している[8] 。
テレビ番組の企画で、ノックでフライを打ち、レフトのポールに直撃させる、更にはシュート回転を掛けて三塁側ファウルゾーン方向からポールに、カーブ回転をかけてレフトインフィールド方向からポールに直撃させるという離れ技を披露した[要出典 ]。
山崎武司は著書の中で高代について上司に媚びる・監督に媚を売る・権力にものを言わせる・選手目線で対話できない指導者と記し、山崎は高代との確執でスタメンを外れることが多くなったという[11] 。
2004年から2006年の3年間中日でコーチで同僚だった長嶋清幸は「オレと高代さんの仲が悪いのは選手もみんな知っている。年下なのにいろいろと意見したことが気にいらなかったんだろ。でも選手をマイナス方向へ動かしたことはない。コーチが意見を出して決定するのは監督。やっかみだよな」と長嶋は高代との間に確執があったことまで示唆した[12] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1979 | 日本ハム | 123 | 432 | 397 | 48 | 99 | 19 | 1 | 7 | 141 | 47 | 14 | 5 | 11 | 6 | 16 | 0 | 2 | 39 | 8 | .249 | .278 | .355 | .633 |
1980 | 119 | 438 | 383 | 55 | 103 | 14 | 0 | 5 | 132 | 35 | 11 | 6 | 13 | 4 | 33 | 0 | 5 | 39 | 8 | .269 | .332 | .345 | .677 | |
1981 | 86 | 352 | 325 | 50 | 87 | 14 | 1 | 7 | 124 | 40 | 2 | 3 | 6 | 2 | 17 | 0 | 2 | 23 | 7 | .268 | .306 | .382 | .688 | |
1982 | 116 | 442 | 385 | 37 | 101 | 18 | 1 | 3 | 130 | 33 | 3 | 2 | 22 | 1 | 32 | 0 | 2 | 22 | 10 | .262 | .321 | .338 | .659 | |
1983 | 124 | 551 | 466 | 69 | 128 | 25 | 0 | 9 | 180 | 55 | 12 | 3 | 27 | 4 | 44 | 0 | 10 | 31 | 7 | .275 | .347 | .386 | .733 | |
1984 | 33 | 122 | 107 | 12 | 28 | 4 | 0 | 5 | 47 | 18 | 0 | 0 | 5 | 1 | 8 | 0 | 1 | 12 | 2 | .262 | .316 | .439 | .755 | |
1985 | 111 | 492 | 402 | 61 | 109 | 18 | 2 | 11 | 164 | 58 | 5 | 2 | 41 | 3 | 40 | 1 | 5 | 43 | 9 | .271 | .341 | .408 | .749 | |
1986 | 113 | 422 | 355 | 54 | 80 | 15 | 2 | 8 | 123 | 39 | 4 | 2 | 20 | 4 | 40 | 1 | 3 | 48 | 9 | .225 | .308 | .346 | .654 | |
1987 | 58 | 180 | 147 | 17 | 29 | 2 | 0 | 2 | 37 | 17 | 2 | 5 | 5 | 3 | 25 | 2 | 0 | 27 | 3 | .197 | .309 | .252 | .561 | |
1988 | 10 | 16 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1989 | 広島 | 24 | 35 | 32 | 2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 4 | 1 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 6 | 1 | .250 | .286 | .281 | .567 |
通算:11年 | 917 | 3482 | 3011 | 406 | 772 | 130 | 7 | 57 | 1087 | 346 | 54 | 29 | 151 | 29 | 260 | 4 | 30 | 291 | 64 | .256 | .319 | .361 | .680 |
通算監督成績
- 2試合2勝0敗0分、勝率1.000
表彰
- ベストナイン:1回(1980年)
- ダイヤモンドグラブ賞:1回(1979年)
記録
- 初出場・初先発出場:1979年4月7日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(後楽園球場)、8番・遊撃手として出場
- 初安打:1979年4月12日、対南海ホークス前期3回戦(後楽園球場)、5回裏に佐々木宏一郎から
- 初打点:1979年4月24日、対近鉄バファローズ前期3回戦(後楽園球場)、4回裏に井本隆から
- 初本塁打:1979年5月17日、対西武ライオンズ前期10回戦(西武ライオンズ球場)、2回表に東尾修から先制2ラン
- オールスターゲーム出場:3回(1979年、1980年、1983年)
背番号
- 2 (1979年 - 1988年)
- 5 (1989年)
- 70 (1990年 - 1995年、2010年、2014年 - )
- 81 (1996年 - 1998年、2004年 - 2008年)
- 86 (1999年 - 2001年)
- 87 (2002年 - 2003年)
- 63 (WBC、2009年・2013年)
- 78 (2011年 - 2012年)
登録名
- 高代 延博 (たかしろ のぶひろ、1979年 - 1984年、1989年 - )
- 高代 慎也 (たかしろ しんや、1985年 - 1988年)
関連情報
著書
- 『WBCに愛があった。』(2009年6月:ゴマブックス)
- 『WBC 侍ジャパンの死角』(2013年6月:角川書店)
- 『高校球児に伝えたい! プロでも間違う守備・走塁の基本』(2013年12月:東邦出版)
- 『目指せ! 侍ジャパン 夢を現実にする「走攻守」の極意』(2015年2月:竹書房) ISBN 9784801901131
脚注
- ^ 中国新聞社刊「カープの歩み 1949-2011」113ページ
- ^ 週刊ベースボール1999年選手名鑑号より
- ^ "侍ジャパン高代コーチ ハンファのコーチ就任". Sponichi Annex (2010年1月17日). 2010年1月17日閲覧。
- ^ "オリ三塁ベースコーチ交代 岡田監督「大きいミスが...」". (2011年9月17日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/17/kiji/K20110917001638550.html 2013年3月9日閲覧。
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 高代延博氏のコーチ就任について阪神球団公式サイト2013年10月21日配信
- ^ a b "高代ヘッドコーチ 監督意向受け来季も三塁コーチ". デイリースポーツ. (2015年10月26日). http://www.daily.co.jp/tigers/2015/10/26/0008512460.shtml 2015年10月28日閲覧。
- ^ "「日本一の三塁コーチ」の異名はダテじゃない". 東スポWeb . (2013年3月9日). http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/117968/ 2013年3月9日閲覧。
- ^ gooTV 『ちちんぷいぷい』2015年7月17日(金曜日)放送分「昨夜のホームイン! with Tigers」
- ^ 山崎武司著『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』、2014年、宝島社、P78-P80
- ^ 解任長嶋コーチ落合監督に捨てゼリフ、スポーツニッポン、2006年10月29日より
関連項目
外部リンク
- 高代延博 公式ブログ
- 野球のツボ - Yahoo!ニュース 個人
球団 | |
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本拠地 | |
文化 | |
マスコット | |
球団歌・応援歌 | |
永久欠番 | |
日本一(2回) | |
クライマックスシリーズ優勝(2回) | |
リーグ優勝(10回) | |
できごと |
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指名選手 |
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